小説エマ1 久美沙織 [#地付き]口絵・本文イラスト/森 薫 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)慇懃《いんぎん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)鵜《う》の目|鷹《たか》の目で [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ]、|〜《※》[#〜〜] ------------------------------------------------------- [#ここから3字下げ]   目 次 [#地から5字上げ]17行  序 [#地から5字上げ]32行 第一話 訪問 [#地から5字上げ]144行 第二話 眼鏡 [#地から5字上げ]538行 第三話 南からの訪問者 [#地から5字上げ]1100行 第四話 過去の呼ぶ声 [#地から5字上げ]1601行 第五話 ふたつの世界 [#地から5字上げ]1955行 『小説エマ』を書くにあたって●久美沙織 [#地から5字上げ]2509行 解説●村上リコ [#地から5字上げ]2560行 イラストあとがき●森薫 [#地から5字上げ]2597行 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#ここから3字下げ] The Novel Emma " Prologue "  序 [#ここで字下げ終わり]  授業を受けようとしている夢を見た。  もうすぐ授業がはじまる。先生が廊下《ろうか》をやってくる。  なのに、教壇《きょうだん》の足元のほうに、紙屑《かみくず》が落ちている。たぶんノートの破れた一ページのような、ぜったいに見逃《みのが》しようのない物体が。  ウィリアムはどきどきして、落ち着かない。  これからおいでになるはずの先生はたいそう頑迷《がんめい》でうるさ型の爺だから、こんなものを眼にとめたらきっと立腹なさり説教なさるに違いない。いまのうちに行って、サッサと取り除くに限る。たとえ自分の不始末でなくとも。わかっちゃいるが動けない。クラスの他の連中は互いにおしゃべりしたりふざけたりなどしてわいわいガヤガヤざわめいてばかりで、くだんの紙屑に気づいたようすもない。そもそも誰があんなものを落としたのかもわからない。その馬鹿野郎がなんとかすればいいのだが、誰かがわざとしかけた悪戯なのだろうか? だとすると、へたに気働きをして取り除いたりすると、余計なことをしやがってと責められることになる。だから、動けない。  言い訳し躊躇《ちゅうちょ》する自分、義に駆られ焦《じ》れったがる自分。  引き裂かれるふたつの自分の間に、悪夢はしめっぽく熱を帯《お》びる。  獅子《しし》のたてがみめいた白髪《しらが》の教師が戸をあけてやってきて大きな頭を芝居がかってさっと一振り、教卓にすっくと立つ、みながそちらに注意を向ける、すると「アッ」と短く叫びをあげたのはギョームだかロジェだかあのはしゃぎ屋の双子《ふたご》のどちらかだ。見る間にキャベツ畑のチョッキを着た生意気ウサギのように小走りに駆けていって紙を取り上げくしゃくしゃに丸めながらチョッキとズボンの問におし込み、それからはじめて教師のほうを見てハッとした体《てい》で立ち止まり「すみません、先生!」実にスマートに爽《さわ》やかに若者らしく屈託《くったく》なく微笑《ほほえ》んで、また席まで駆け戻るのだ。  あまりに鮮やかにすばやい動作なので教室の大半にとってはいったい何が起こったのかまるでわからない。が、もとから紙屑のあるのに気づいてチラチラ視線を飛ばしていたのは自分ひとりだったわけでもないのだろう、突然、四五《しご》人の生徒たちが同じように立ち上がりダッと教壇に走り、なぜか(夢だから)いきなり増殖《ぞうしょく》した同様のゴミを次々に拾ってはおのが戦利品として果敢《かかん》に机まで持ち帰るのだった。  そして……ここがこの夢のもっとも不愉快で情けないところなのだが……何人かの先達《せんだつ》がそうして働いているのを見たとたん、とうとうたまらなくなった自分も、ようやくというか突然というか行動を開始する決意をつけるのである。なぜかどこからともなくとり出した巨大なチリトリを持っていて、せっせと教卓周辺を掃除《そうじ》している。  出遅れたクラスメイトたちの怨嵯《えんさ》の視線を浴《あ》びながらせっせと掃除をしていることは、自分としては内心かなり嬉しく誇らしいのだが、それでもそんな気持ちをあまり顔にださないよう、なるべくそっけないなんとも思っていない顔つきを装《よそお》ったままで、働くのだ……。  ……というあたりが、この朝、起き抜けに見た夢の大意だ。  ウィリアムはうめき、手で顔を撫でた。手は熱く、顔は冷たかった。 「なんなんだ」  声にだして言ってみる。  寝室は静かで仄暗《ほのぐら》く、縦長の窓にかけた分厚いカーテンの上端の隙間《すきま》からかすかにおもての道を照らすガス灯のちらつく灯がのぞくばかり。むろん、そこには誰もいない。ひとりだ。  屋敷は広く、いくら子だくさんなジョーンズ家とはいえ、充分な余裕があるのだから。  掛け布と布団《ふとん》を顔の前までひっぱりあげ、糊《のり》の利《き》いたリネンに鼻をうずめ、目を閉じてひとつ深呼吸をすれば、おのが体臭の底に横たわったリネン水のやさしい匂《にお》いに抱きしめられ慰《なぐさ》められる。  僕は家にいて、自分の寝室にいて、安全だ。もう学校になんか通う必要はない。二度とあんなところに行かなくていいのだ。無事に卒業してしまったのだから。  あらためて自分に言い聞かせる。  知らずしらずのうちに封じた記憶にかすかに合致するものがあるようなないようなけっして完壁《かんぺき》には正確ではなかったかのような古き学舎から、こうして確かに脱出できたことを、そこから永遠に遠ざかっていてかまわないこと、二度とそこに戻らなくていいことを、心から満足に思う。  そう、学校《イートン》に通っていた日々はさほど遠いものではないながらも、その時代のもたらした唯一《ゆいいつ》の成果といえる学友ロバートとの交情を他にすれば、もうきっぱりと断絶した過去のものであって、幸いにもこの現在ではない。  眼光鋭い教師のバシリスクのごとき一睨《ひとにら》みや、薄暗く常に金属味のする緊張|漂《ただよ》う廊下、たたされて見つめる湿り気を帯びた古い壁紙、そろえた両手に振り下ろされる鞭《むち》の一打ち(むしろその一打ちのくる予感)、重たい沈黙に押しつぶされた教室、かりかりと筆記具をつかう音ばかりの響く試験の時、友達であること以上に競争相手であった数多《あまた》の同窓生たち、値踏みとおべっかと探り合い騙《だま》しあいの日々などなどなどなど……は、もう、すべてみんな、終わった。済んだ。  過ぎてみればみな耐えられないほど苦しいことでも困難なものでもなかったことが確認できるとはいえ、あの日々を耐えきった自分がいまだに信じられない。辛うじて、運良く、というべきであろう。  両手を寝具から出し、上体を浮かして枕を整えなおす。  そんなにも辛くてイヤだったのなら正直にそう言えばよかったのだ、なんなら途中でやめるなり逃げ出すなりすればよかったようなものだが、渦中にある時には溺《おぼ》れぬよう必死にもがくのがせいぜいで、思い切って脱出するほどのエネルギーなど湧《わ》いてこなかった。それに、やはり自分はどうしても、�坊ちゃん�なのだと思う。やめたからといって他になにをすればいいのか。逃げたらどこにいけばいいのか。それがわからないではなにもできはしない。ほんとうの意味での決断など、親がかりの身にできるはずもないという気もする。  父の思惑《おもわく》から逸脱《いつだつ》することは、その庇護《ひご》を失うことに他ならない。甘い寵愛《ちょうあい》やらあたたかな関心やらまでは期待できないとしても、ただ彼の逆鱗《げきりん》に触れずにさえいれば向こうは向こうで親の責任というやつを全《まっと》うしてくれるわけだ。義務として。内心どう思っているかは知らないが。  目立たず、浮かれず、高ぶらず。  長男は生き延びねばならない。  向かい風は首をすくめてやりすごし、誰かが先に歩いておいてくれたゆえ確かと知れている道のど真ん中をさらにそろそろ摺《す》り足《あし》で歩き、よく晴れて雲の見えない日にも用心と礼儀のために絶えず蝙蝠傘《こうもりがさ》を携《たずさ》える。事件とか冒険とか心浮き立ち我を忘れるほどの体験とかを求めない、そういった危険な魅惑からはしっかりと顔を背《そむ》けておく人生。安全と安心と安泰をなによりとする一生。  そのへんが小心者の凡夫ウィリアム・ジョーンズにふさわしき命運であって、そのような自分の則《のり》を越えぬようにしようと常に心がけることこそが、父リチャードのいう「品性」なのであろう。品性とは上流階級《ジェントリ》たるものがいついかなる時でも欠かしてはならない徳目だそうだ。  ……それにしても……  自分がこれほどまでに学校を嫌っていたとは、知らなかったな。  ウィリアムは目を瞑《つむ》り、ふたたび訪れた微睡《まどろ》みのうちに素直にひきずりこまれかける。あんなところに戻りたくはない。また放り込まれなどしたら、きっと死にたくなるだろう。まったくゾッとする。  そういえば……  意識が眠りの淵《ふち》へと転がり落ちる寸前、ひとりの女性の顔が浮かぶ。  欺瞞《ぎまん》と苦渋《くじゅう》と神経戦に満ちた学園の日々よりもさらに遠い過去である幼き日々に知っていた女性の顔が。よく知っていた、毎日あった、思えばあの頃の自分にとっては、そのひとに認められそのひとに気にいられることこそが願いのすべてであった。  そのひとがウンといってくれなければ、太陽はのぼらず、月は沈まず、星は輝かぬのに違いなかった。  不愉快になるかと思ったが、そうではなかった。  不思議な笑みがくちびるに自然に浮かんでくる。なんだか胸があたたかくなった。  そういえば、先日夕食の席でちらりと話題になったことがあった。なんのつながりでだったか忘れたが。たまさか名前が出た。  すると、彼女は最近どうしているのかと父がまるで知っていて当然のことのように訊ねるので、まったく知りません関知しませんと答えると、卒業してからおかげさまでしたと挨拶《あいさつ》にぐらいは行っただろうな? と蛇の目つきで睨《にら》まれた。そんなこといまのいままでまったく思いつきませんでしたと正直にいったら、おまえは感謝の念も気配りもまるで足りない、と罵《ののし》られた。  彼女はもういい年だろう、恩を感じてお礼を言いたくなった時には相手は土の下かもしれないぞ。  家族そろっての団樂《だんらん》の時にふさわしい実に楽しい話題だ。  しかし、確かに。  あのひとになら、逢《あ》いたいかもしれない。  あのころ僕はあまりにもコドモで、あのひとはあまりにも尊大だった。だからいまでも僕はあのひとが怖い。  このままだと一生怖いまま、頭があがらないままだろう。  克服するために、よぼよぼの弱々しい老婆になって棺桶《かんおけ》に片足つっこんでいる姿をよく見て目に焼き付けておいたほうがいいかもしれない。  そう、確かに、そろそろ逢ってみてもいい頃かもしれない。 「ストウナー夫人のご住所、で、ございますか?」  スティーブンスは向かって右側の眉尻《まゆじリ》をほんの少しだけピクリとさせた。  しゃんと背筋を伸ばしてこちらを見つめる以外のあらゆる挙動を停止したその姿勢は人間というよりは優秀な執事の姿をした木彫りの人形のよう、あるいは、愛用の烏賊胸《いかむね》のシャツといっしょに毎晩ガチガチに糊をかけなおされアイロンで丹念に伸ばされでもしてあるかのよう。枯淡《こたん》の老人のいつも長い鼻の先のなにもない一点を漠然と見つめているばかりで捉えどころのない視線を、こちらに、自分に、一瞬とはいえ具体的にまっすぐに強引に向けさせただけでも、ウィリアムとしてはなんだか珍しく一点|盗《と》ってやったような気がする。 「僕の家庭教師《ガヴァネス》だよ、十《とお》かそこらまで勉強を教わった」  言わずもがなのことを言ってみたくなる。 「存じておりますが」  案《あん》の定《じょう》、スティーブンスはかすかに目を細める。もちろんそんなことは当然知っていなければならないし、さらには口にされなかったことまでも先んじて理解し、対応しなければならない。なのに、  おお、スティーブンスにはわからないのだ。  僕がなにをしたいのか、なにを思って突然先生の居所など訊ねるのか、教えても良いのかよくないのか、判断に苦しんでいるのだ!  いや面白い。スティーブンスが困っているぞ。  ウィリアムはわくわくし、ついニヤけそうになるのを、肘掛《ひじか》け椅子《いす》に深々とすわりなおすことでごまかした。 「おやおや、これは驚いたな。きみにもたまには分からないことがあるのかと思うと、ちょっと溜飲《りゅういん》がさがる。それでしたらなになに通りの何番地でございます、とかって、たちまちスラスラ言われるんじゃないかと思ってたんだけど」 「確かリトルメリルボーンのタウンホールのほう……モンテギュー通り付近にお住まいと聞いた覚えがかすかに」 「それってどこ?」 「ハイドパークの北、パディントンの東隣にあたりますが」 「ふうん。遠いの?」 「さほどは。最近はこのへんにも乗合がよく俳徊《はいかい》しておりますし……しかし、あのう、ウィリアムさま?」 「なんだ」  スティーブンスは一瞬上唇を軽く吸い込んだ。なにか余計なことを言おうとする時の癖《くせ》だ。 「独居婦入をご訪問なさるならば、あらかじめ、そう、およそ二週間ほど前に、まずは書状をお出しになられませんと。先方にもなにかとご都合があられましょうし」  ウィリアムは黙って肩をすくめた。  冗談《じょうだん》じゃない。こころの準備なんてされてたまるか。ただの一度も勝つのはおろか対等の立場にたてた気のしたことのない相手をわざわざ訪ねるのだ。奇襲攻撃以外、撃滅《げきめつ》のチャンスなどありえないではないか。 「ご訪問のお日取りがわかりましたならば、適当な着衣など滞《とどこお》りなくご用意いたしますし、お携《たずさ》えになるべき花もしくはショコラもしくはワインの一瓶《ひとびん》などリストをご用意いたしまして」 「……名前……」 「はい?」 「ミセス・ストウナー、ファーストネームは、なんていうんだっけ?」 「…………」  哀《あわ》れなスティーブンスは考えこんだ。目を瞑り、たちまち浮きでた縦嫉《たてじわ》をおさえるように右手を眉間《みけん》にあて、やや斜めにうつむいて。口髭《くちひげ》をむずむずさせながら。  おやおや。めでたいなあ。今日はなんていい日だろう! スティーブンスをこれだけ窮地《きゅうち》においやることができるなんて。この吉兆がつづいているうちに、スウトナー先生も片づけるに限るな、きっと! 「……ケリー」  スティーブンスがつぶやき、カッと目をあけた。 「そう、たしか、ケリー・ストウナー夫人でありました」 「ケリー……へえ」  ウィリアムは口に出してみたが、名前は舌の上を落ち着かずに転がった。まったく覚えのない、なじみのない響きだ。そもそも先生を名前で呼んだりしたことはない。うちの中の誰もやったことがないだろう。  ケリー、ケリー。ケリーねえ。あの先生そんな名前だったのか。  carry(運ぶ、ささえる、納得する)、career(経歴、発展)、carefully(注意深く)。  Kerryといったらアイルランドの南のほうの州の名前だし、そこ特産のまっ黒でチビでみるからに強情そうな牛の品種だろう。  Kは|王さま《キング》。  Kはカリウム。  Kappaはアルファベットの十番目。 「ミスター・ウィリアム」  そうか、先生にも名前があったんだ。あの先生も生きてるあたりまえの人間のうちだったんだ。 「ごほん。ウィリアムさま」 「あ、ごめん。なんだろう」 「ご用がそれだけでしたら、さがらせていただきますが、他になにか?」 「いいよ。ご苦労。行って」  今日はやや調子の狂ったスティーブンスが定規《じょうぎ》で計ったかのような道筋を描いて出ていく背中を、ウィリアムはぼうっと見守った。  ぱたん。ドアが鳴る音に、弾かれたように立ち上がる。  でかけよう。ケリー先生にあいに。早速ちょっと行ってみよう。 [#改丁] [#ここから3字下げ] The Novel Emma story 1 " Visit "  第一話 訪問 [#ここで字下げ終わり]  ギャビー(庭師の伜《せがれ》だ)がみつけてきた辻馬車《キャブ》は、偶《たま》さか、ふだんならリージェンツから大英博物館にかけての界隈《かいわい》を流しているという一台だった。ならわかるだろうと、スティーブンスに書いてもらったメモを見せると、実直そうな御者《ぎょしゃ》の男は、不意の一撃でも食らったかのように顔を赤くした。陽《ひ》にやけてかさついた顔の中の細い目をますますすがめてチラリとかたちばかり眺めながら、不愉快そうに顔面の半分を痙攣《けいれん》させ、そんなもんとっととひっこめてくれ、と手真似をする。  老眼か。あるいは無学すぎるのか。スティーブンスの字はあまりに小さく(どうも紙とインクをケチらずにいられないらしい)、あまりに装飾的に流麗《りゅうれい》すぎて、馴《な》れているものにも時々読みとりにくいことがある。  おそるおそる口頭であらためて所番地を告げてみると、こんどは素早く、わかった、とばかりにうなずき、ドアをあけ、さっさと乗れ、と合図する。  彼の誇りを傷つけてしまったかもしれない。  馬車は使いこんではあるがそこそこ清潔に整えてあるし、牽《ひ》き馬《うま》も若くはないが澄んだ瞳《ひとみ》をした健康そうなヤツだったので、ギャビーに良い車をえらんでくれた褒美《ほうび》だとわざと大声で言って、六ペンス銀貨を放った。  たかが小一時間乗っている貸し馬車だろうと、ヨボヨボでいまにも死にそうなまでに酷使《こくし》されている馬や、その馬に当たり散らしてばかりの不機嫌男などにあたろうものなら、気分が悪い。ノーフォークの婦|人《※》[# ノーフォークの婦人/1877年出版の『黒馬物語(ブラック・ビューティ)』の作者、アンナ・シューエルのこと。からだを壊して数年間寝たきりになった晩年に、生涯唯一であるこの作品を執筆した。ここでこの動物文学の傑作の名があがるのは、多感な年頃であったウィリアムが刊行直後にこの評判の作品を読み、以来、働く馬たちや貸し馬車業務について無頓着ではいられなくなったことを示している。]の静かながら悲痛な訴えが胸を叩くのだ。  その点、この御者はとっつきがああでも、実はなかなか心遣いの濃《こま》やかなやつだった。  旦那はお急ぎですか、それとも、のんびり良い道をいくほうがいいですかね、と訊ねる。なぜそんなことをと聞き返すと、車体が古すぎ、石畳《いしだたみ》の街路ばかりを行くとガタガタして乗り心地が悪いだろうからと|訥々《とつとつ》と説明する。ウチのトゥイーティーのやつにも……なあに、この芦毛《あしげ》の名前ですがね……ろくな蹄鉄《ていてつ》をはかせてやれねぇから、まあ、なるべくなら土の道をいかせてやりたいとね。──ああ、そういうことなら、別に飛ばさなくてもいいよ、どうせコッチは気のすすまない用事なんだ、というと、じゃあ、そういうことで、リージェントパークを突っ切っていかせてもらいますんで、と手綱《たづな》をひいた。  エナメル塗りの箱席におさまって、ひとりガタゴト揺られていく。  町は相変わらずじめじめと醗陶《うっとう》しい様子であったが、メイランドパークからカムデンを抜けプリムローズヒルにさしかかると視界がひらけ、ちょうど雲の切れ間からまばゆい陽光もさしこんできた。  良い道をえらんだおかげで、そういう余緑《よろく》もついてきたわけだ。  まだ緑がおぼつかない公園の芝生のかすかな起伏を、どこかのうちのこどもたちがのんびりと散歩をしているのが見えた。うら若い子守娘がつきそっていたが、あまり役にたっていない。どう見ても、高価そうな毛皮コート姿の七つ八つばかりの幼女のほうが有能そうであった。  彼女はおそらくこの一家の長女でもっとも年長なこどもなのだろう、ようやくよちよち歩けるようになったばかりに見える双子らしいウールをまとわされたのの手をとってきびきびと先頭に立ち、全員を凛《りり》々しく引率《いんそつ》している。幼くて身勝手な弟妹(あるいは、親戚《しんせき》や近所のこどもでも混じっているのだろうか)は、ともするとよそ見をし、無駄話をし、脇道にそれ、立ち止まってそこらのものを弄《いじ》る。毛皮の彼女は、みながバラバラにならぬよう、放心しておいてきぼりにならぬよう、行方不明にならぬよう、しじゅうなにやら声高《こわだか》に命令や注意を発し、指さし確認してひとりひとりの状態と員数を確認し、幼い顔を義務と興奮で真っ赤にしている。ぼんやりおっとり服装もヤマだしの芋っぽい子守娘のほうはというと、幼い主人より十《とお》近く年長だろうに、もっぱらその手足となって、はみだすこどもやはぐれそうになるこどもを回収する係だ。牧犬《シープドック》にだって、いちいち個別に命令されなくてもそのぐらいのことはできるものを。  あのおチビちゃんときたら、グレイスのちっちゃな頃みたいだな。  ウィリアムはついニヤニヤしてしまう口元を、手袋の手でそっと隠す。  ふたつ年下の妹は、自分などよりよほど堅実なしっかりもので、一族のリーダーたるにふさわしい資質を備えている。たとえば責任感とか、抜け目なさとか、先々を見通して計画をたて、かつ、その計画に齟齬《そご》が生じるとたちまち機敏《きびん》に変更する感覚などなどを。それをいうなら下の妹のヴィヴィアンもかなり勝気で負けず嫌いだ。戦争にいかせたら優等な兵士になるに違いない、はりきって活躍して目覚ましい出世をするだろう。  ウチはどうも女の子たちのほうが凛々しく男勝《おとこまさ》りで、と、父が誰かにボヤいているのをかすかに聞いた覚えがあるような気がする。  馬車は走る。  知らない余所《よそ》の家のこどもたちは、いまや半分枯れた芝生のひなたのあたたかそうなところに散らばって腰をおろし、気持ちよさそうに空をあおいでいる。V字のみおを引いて水路を行く鴨《かも》たちをポカンと口をあけて飽かず眺めている金髪坊やの、その髪が陽光に透けて天使の輪のようだ。  そういえばもうそろそろ春なんだな、とウィリアムは思う。  いまだ冬枯れの木立のめだつごく早春に過ぎぬとはいえ、告知節(3月25日)を過ぎてより陽の出が目にみえて早まった。さしものテムズの川霧も草臥《くたび》れて勢いを減じ、冷たく骨身に滲《し》みる雨もこのところだいぶ少なくなった。ロンドン名物の黄色くねっとりとした空気もいささか明度をあげたかもしれない。  こどもの頃、館のあるハムステッド郊外からたまにシティに出掛けてくるとき、近づくたびに眼前にひろがる市街の空の異常……特に、その不気味で独特な色合い……がイヤでイヤでならなかった。まるで毒きのこの胞子の舞い飛ぶ笠の下にみすみす踏み込むように思えたから。  おお、そういえば。  ロンドンの空を気味悪がって怯える自分に、その特質について、なぜそれがそうなるのかについて、やたら詳しく説明をしてくれたのは他ならぬミセス・ストウナーだった。  平均気温が低く一年を通じて湿度の高い気候的特徴と、緯度《いど》やら標高やら植物層やらとの相関関係にはじまって、この島国とドーバー海峡の向こうに横たわるバカでかい大陸のこと、蛇行《だこう》するテムズにしばしば霧の発生する理由、そして、毎日朝になると市街のほとんどすべての家庭がいっせいに焚《た》きはじめる石炭ストーヴの煙と熱せられた空気が、夜明け前の冷えきった大気と混じり合ったときに、いったいどのような現象をおこし、ふるまいをするものであるのか。ストウナー先生がことをわけて説明してくれたそれらの理屈は、この世紀末に破竹《はちく》の勢いで発達を遂《と》げているまっ最中である斬新な「科学」の言語であり、ちかごろ注目の思考方法であり、世界でいちばんすすんだモノの捉えかたであるに違いなかった。  初歩的なことだよ、ワトソンくん!  ストランドマガジンの著名な小説の主人公ならば、そんなふうに言い放つかもしれないたぐいの種類だ。  ストウナー先生は、かのホームズ氏と直面しても、きっと対等にやり合うだろう、あるいはウマがあうかもしれない。  彼女のなにげない発言には、しばしば、余所ではただの一度もきいたことのない単語が混じった。たとえば、重力とか比熱とか対流とかいうのがそれだ。面食らって意味を訊ねると、ムッとしかめ面《つら》をされ、ちょっとここに座りなさいといわれ、さらに難しいことばを連ね、時には図表やら模式やらまで用いてこんこんと説明された。わざわざどこかに座らなければならないのは、説明に時間がかかるからで、簡単に短く説明できないのは、そういう問題がいつも踏み込むときりもかぎりもなく深遠であるらしい科学の全体とわかちがたく結びついているからだった。  ウッカリちょっと聞いたばかりに小一時間もチンプンカンプンな用語に満ちたやたら壮大で想像のつかない世界の理屈を聞かされて閉口したことは一度や二度ではない。  それはきっとすんなりわかればこの上もなく面白いことなのだろうし、世界の神秘やら秘密の真実やらについては、ウィリアムとて好奇心がある。できることならわかりたい。自分のために、これからのために、ちゃんと知りたいし理解したいと思う。  が、先生の話はしばしばあまりにも漠然《ばくぜん》としすぎており、そもそもまったく目に見えるものでなかったり、さらに基礎的な部分を理解することができていないとほんとうにどうにも考えの足掛かりがなく、めったに、すとんと腑《ふ》に落《お》ちたためしがない。  先生と話すと、ただただ、劣等感や自己嫌悪が増すばかりだ。  そうでなくても女性というものは、みな、わけのわからない単語を散りばめた会話をするものだ。が、たとえば母の友人の婦人たちなどが好んで話題にしたがるのは、誰が誰とどういう仲であるように見えるとか誰がいつどんな財産を受け継ぐらしいなどといった憶測に富んだ噂話《うわさばなし》と、誰がいつどんな服を着てどんな宝石をつけていたか、それが似合ったの似合わないの品があるのないのといった品定め話である。婆さんたちはクリノリ|ン《※》[# クリノリン/スカートを広げる為の骨組。また、そうして広げたスカート。]やバッス|ル《※》[# バッスル/ドレスの腰からヒップを強調する為の腰当。元々はダウンや木綿を詰め込んだパッドだったが、鯨骨などが使われるようになり大きさを増した。]の時代を懐《なつ》かしがり、娘たちは最新流行のラインはどうで素材はどうで色はどうで、どこの店に何が入荷したか何が品薄か誰がもう手にいれたかなどといった知識は驚くほど豊富である。  そういった話題が交わされている限りは、そんなに面食らったりしなくて良い。どう対処すればいいかわかっている。紳士たるもの、新奇にして斬新なファッションの世界に関しては、あまり深入りしてはいけない、かといって、まるで無関心無頓着《むとんちゃく》すぎても朴念仁《ぼくねんじん》と呼ばれてしまうのだが。話しかけられたらただフンフンと時おりうなずき、五回に一回は、おや、そうなのですか、それはまた……と目を丸くしてみせたり、いかにも意味ありげに口髭《くちひげ》を捻《ひね》ってみせたりするのが約束である。万が一発言を求められたら、女性たちの審美眼《しんびがん》をときおり褒《ほ》め、いっさいわからなくてもとにかく彼女の選択に関しての柔らかな賛意を示し、微妙な変化や工夫には気付いたら事実を指摘し、ただし、ぜったいに批評はしない、まして否定の言語は口にしない。ようするにたんに適当にあやして、好悪《こうお》の判断など示さずに遣《や》りすごせば良いのである。どうせ服飾の流行などというものはまったくどうでもいいものであるし、瞬《またた》きするほどなく変わってしまうのだから、いちいち必死に理解したり追従したりする必要はない。  が、ミセス・ストウナーの話の「わけのわからなさ」はこのへんとは明らかに種類のちがうものであった。わからないことが悔《くや》しいし、わからない自分が恥ずかしくなる。何度も同じことを聞きかえしてしまうと、忸怩《じくじ》と焦りも覚える。  ああ、だから。たぶん、だからこそ! 自分はあのひとがニガテで、でも、それは「好きじゃない」というのや「興味ない」のとは少し意味のちがうニガテなのだ。  ストウナー先生に認めてもらいたい、まともな頭の持ち主で、おとなの男としていっちょまえ、紳士として一人前だと思ってもらいたい、なのに、なかなかそうできない。とてもそこまで到達できた気がしない。そんな自分が居心地が悪い。だが、だからといって尻尾《しっぽ》をまいて逃げてしまうのはもっとまずい。挑戦をやめてしまえば敗残兵だ。  なまじ敬して遠ざけておけばおくほど、さらにいっそう「なりたい自分」から遠ざかってしまう。  いかに気まずくとも、うるさがられようとも、あくまで辛抱《しんぼう》強く彼女の近くにいてまつわりつき、その知識と経験を譲り受けなければならない。もしかすると内心|軽蔑《けいべつ》されているのかもしれないと密《ひそ》かに感じてしまっていても、自分はなんてみっともないヤツなんだとミジメな気分になってしまっていても、そんなことはオクビにも出さず、高い階級のものらしい威信と自尊を保っていなければならない。ようするに脆弱《ぜいじゃく》な自意識のゆらぎに負けてしまってはいけないのである。となれば、彼女の手厳しいことばをよく聞いてわかり、その一挙手一投足に注目しなければならないし、むしろ、イヤでもそうせずにいられないのだった。  たぶん、ミセス・ストウナーは自分が生まれてこのかた出会った中でもっとも聡《さと》く賢いひとだ、とウィリアムは思う。ごたいそうな肩書をもった学校の教師たちや、教会関係者をふくめてすらそう思う。  彼女はあまりにも特別だ。きっと、世が世なら、魔女と呼ばれて火あぶりの刑にされたに違いない。  そういえば……なぜ[#「なぜ」に傍点]そうなったのだろう。どこでそんな知識や学問を得たのだろう?こどもの頃は、ただあの先生ははじめからそういうひとなのだと思うばかりであったが。  父親がなにかそういう関係だったのだろうか。あるいは、若くして亡くなったご亭主というひとが知識人であった、ということなのかもしれない。長生きさえしていたなら、間違いなく世界の歴史に名を残しただろうような、この19世紀の思想的産業的革命の一翼《いちよく》を担《にな》い、我が大英帝国にさらなる発展繁栄をもたらすような偉大な天才科学者あるいは大発明家であったとか?  それはわからないが、  いずれにしろ、  彼女は、たぶん、この僕以上に窮屈に思っているだろうな。  この国の、この街の片隅《かたすみ》に暮らすことを。  きっと生きづらい。  彼女のようなひとにとっては。厳格な道徳規範と厳密な階級意識、「世界の工場」(蒸気機関を手にいれたために最強の工業国家であった英国のこと)のもたらすあらゆる物品の過剰と質素倹約の美風がせめぎあう、この時代に暮らすのは……。  19世紀末、英国、首都、ロンドン。  産業革命による変化と革新の時代……  古い生活習慣と階級社会もまだまだ根強く、国内各地に鉄道が敷設《ふせつ》され、大規模輸送が実現しつつも、ひとびとの日用のためには依然として馬車が行《ゆ》き交《か》っていた時代……  この物語の舞台は、そんな時代にある。  辻《つじ》馬車は池を迂回《うかい》して公園を離れると街路に折れた。蹄鉄がしけったアスファルトにかぽかぽと飛沫《しぶき》をあげた。  陽気と考え事にいつしか夢心地となり、山高帽《ボウラーハット》に俯《うつむ》き顔《がお》を半ば隠して微睡《まどろ》んでいたウィリアムは、コツコツ箱をたたかれて、ハッと身じろぎし、目をこすった。馬車は停まっていた。 「つきましたぜ、旦那」 「ああ。どうも」  ドアが開く。腰をあげ、狭い金属の足置きに靴をあてがっておいて、外の光線に目をならし、よくよく降り先を確かめた。寝ぼけまなこで、水たまりや馬糞に踏み込んでしまってはたまらない。 「いくらかな」 「そうスね……|二シリング六ペンス《ツー・アンド・シックス》じゃ?」  乗合《オムニバス》(全区間一シリング)料金と比べても安いものだ! シリング貨を四枚渡し、釣りはとっといて、と言うと、御者はわざわざ帽子を取って礼をした。カスバートといいます、たいがいこの辺でやってるんでまた声をかけてください、と、おそらく彼にしてはずいぶんと愛想《あいそ》よく言ったつもりだろう。  ウィリアムは片手をあげて歩きだした。軽く口笛を吹きながら、ステッキをくるりと回しながら。わざとらしくもことさらに、なにげない紳士の散歩を装《よそお》ってしまったのであったが、視線がきょときょと落ち着きがないのがせっかくの計略を裏切っている。実際、ここら界隈《かいわい》には不案内なのだからしょうがない。  122 リトルメリルボーンストリートN.W.  御者の土地|勘《かん》はまことに正しく、建物の角に記された表示はたしかにスティーブンスが書いてくれたメモとぴたり同じだ。どうやら先生の住居は、公道から短い階段で専用玄関に直接アプローチするかたちの、典型的タウンハウスの一室であるらしい。ひとつ屋根の建造物のうちに壁を隔《へだ》てて三つほどの別個の家がくっつきあいつながりあっている西洋長屋。門や手すりは当節あちこちで見かける燥《いぶ》したように黒い鋳鉄《ちゅうてつ》である。  贅沢《ぜいたく》の極《きわ》みとはいかないが、かといって、逼迫《ひっぱく》しきっているわけでもないようだ。  なんとなくホッとする。  122、と小さく番号が印された戸口にたって、息を整えた。  襟元と帽子の角度を確認する。オホン、と喉《のど》を整える。  ノックしようとして、携《たずさ》えてきた杖《ステッキ》を左腕の肘《ひじ》のうちがわにかけ、その気弱なふるまいと自分の体格やら杖そのものやらがいささか貧弱なのを少し後悔した。若輩者《じゃくはいもの》としてはむろん手袋の手で叩くべきだが、それではこの場合、なんだか、いじましすぎ、下手《したて》に出すぎなような気がしたのだ。いっそ礼儀知らずに尊大に、傲岸不遜《ごうがんふそん》な貴族の爺さんかなにかのように、杖の握りの部分でゴンゴンとことさらに堅い冷たい音をたてたいような気分がした。  いやはや、なぜこうカチンコチンに緊張してしまうのか。なにもテストを受けにきたわけではない。頼みごとをしにきたわけでもないし、貸しているものを無理に取りかえしにきたわけでもない。困難など特になにもないはずではないか、ただの純然無垢《むく》な社交的訪問だ。予告なしに急襲し、老教師のアッと驚いた顔をみて溜飲《りゆういん》をさげよう、できるならその尊大な鼻をあかしてやろうというのが密《ひそ》かな目当てであるとはいいながら、べつだん、罪というほど非道な行為でもない。罪悪感に苛《さいな》まれる必要などあるものか。  そんなにストウナー先生が怖いのか? いまだに?  思わず知らず溜め息をひとつつき、視線を落とし、油断をした、その時だった。  いきなり眼前になにかが迫った、かと思いきや、ごん、と頭蓋《ずがい》と鼻梁《びりょう》と奥歯の三点に同時に音と振動と衝撃が響いた。  痛い時には目の前に星だか火花だかが散るというのはあれは嘘《うそ》だ、とウィリアムは思った。なにも見えなかった。ただ暗黒のみ。その瞬間はなにも感じなかった。ただビックリして思わずしらず飛びのこうとしたためにからだが反射的に仰《の》け反《ぞ》ってしまい、そのまま人形のように倒れこみそうになったのであわててワタワタ手を振り回してしまった。  そんなこどもじみてみっともない恥ずかしいおのれを誰かが見てやしなかったかと思うとカッと顔に血がのぼり、それが畢竟《ひっきょう》、ただいま打ち付けたばかりの患部に余分の血をめぐらせることとなり、幸いにも痺《しび》れはじめていた鼻と額に遅ればせながら馳せ参じた痛みのやつらが妙に張り切って、その場で暴れてジンジンしだし、たちまち両目が涙でいっぱいになったのだった。  視野が暗くなったり明るくなったり、近づいたり遠くなったりやたらにチカチカしたのは、それからのことである。ふうわりと浮遊感もする。  ああ、いかん。僕は気絶しそうになっている。なんてみっともない。女じゃあるまいし! しっかりしろ。気をしっかり持て!  とっさに脇を向いてしゃがみ、錆《さ》びでざらつく手すりを握りしめ、顔の中心部付近をそっと手で押さえてみて、かすかにでも触れれば飛び上がるほど痛むのを息を抜いてこまかしながら、なんとか遣《や》りすごそうとした。  と。 「ごめんなさい、すみません!」  声がしたのである。それも女性の声が。 「まさか、ひとがいるとは思わなくて」  めまいを振り払い、まだ涙のにじむ目を必死に見開いて、ウィリアムは見あげた。  おんなだ。たしかに。若い女性である。  アプローチと戸口との間に、彼女はいた。質素な黒衣の|女中《メイド》服にエプロンをかけ、ひっつめ髪にキャップ型のヘッドドレスをつけたそのひとが、思いがけず近くに。  まだ紹介すらされたことのないうら若い女性の顔を失礼にもこのような至近距離で正面切ってまじまじ眺めてしまったことについては、三つほど言訳が用意できる。とにかく突然のことでしかも痛みで呆然としていたこともあって驚いて疎《すく》んでしまったというのがその一、直前にたぶんリネン類にスプレイでもしていたのかラベンダー水を思わせる清楚でありながら華やかななんとも良い香りがしたので思わずうっとりして思考停止してしまったというのがその二、そして、彼女が眼鏡をかけていたから、というのが三つめの、もしかすると一番大きな要点であったかもしれない。  真鍮《しんちゅう》色の華奢《きゃしゃ》に丸いメタルのフレームに、やや厚めのガラスが嵌《は》まったかたちの視力矯正具が、麗《うるわ》しくも妙齢の女性の顔にくっついているとは、まったくの予想外、意外であったのだ。  編み物か読書か手紙の執筆でもする老婦人ならいざ知らず、おそらく未婚であろう年頃の娘が眼鏡などという珍奇な道具を使っている! というのがまず驚きである。まして彼女はどう見ても使用人だ。貧しく身分|卑《いや》しいものたちは、なくてすむものはなるべくなしですませるのがあたりまえ。もし余分な贅沢品がなければ満足に用がこなせないのだとするならば、この女中はいわば二級品、キズモノである。  そもそも、眼鏡などという無粋《ぶすい》なものは、必要な時にだけとりだして鼻先にちょいとひっかけるか、あるいはオペラグラスのように片手でそっと優雅に支え持っておくべきもので、ふだんの日常にずっと身体に付着させたままでいるようなものではない。まして顔面に。すくなくとも、女性にとっては。すくなくともウィリアムの意識では。  そんなことをしている女性をこれまで一度もみたことがない。すくなくとも身内に。近くに。  そんなこんなで、さまざまな面からあまりにも意表をつかれてしまって当惑していたところに持ってきて、無色透明なガラスの凸《とつ》レンズなどという特殊な額縁を有したゆえ、女性の顔貌、特に瞳の周辺などという、非常にプライベートでかつエロティックな部分、……礼儀正しい紳士ならばよほど打ち解けるか本人の優しい許しを得ないうちにはけっして熱意をこめて眺めたりなどしてはいけない部分……に、ことさら意識を吸いよせられ、長いこと注目してしまったのである。なにしろ生まれてはじめての、そんなものがこの世に存在するのだとはこの瞬間までまったく思いも寄らない珍しいものだったから、しげしげマジマジ食い入るように見てしまった。  見えたのは、思いがけず心ときめかす光景であった。  近視用の眼鏡だったのだから、対峙《たいじ》した人間からすればその向こうにあるものは実際よりも「小さく」見える理屈だが、瞬間の過度の意識集中はまるでむしろそこを異常に拡大してしまったかのようであった。  ふっくらと健康的に青みを帯びた白目、上下の目蓋《まぶた》の際《きわ》にくるりとカールした黒い腱毛《まつげ》がびっしりと植わっているところ、それらも目に入らなかったわけではない、だが、ウィリアムが惹きつけられじっと覗き込まずにいられなかったのは……魂をむんずと掴《つか》まれたかのように感じたのは……、彼女の眼球、虹彩《こうさい》であった! 榛色《へーゼルブラウン》の宝玉に蜂蜜の濃いのを流しこみ、金や緑や藍《あい》のこまかな点を散らして浮かべたらこんな風にもなるだろうか。それはまるで透明琥珀《アンバー》の天球儀、秋の森を描いた極小サイズのステンドグラス。  うわぁ。きれいだ。  ウィリアムは絶句し、息を呑み、幼いこどものように無心にその瞳その色に見とれてしまった。  なんて不思議な色だろう。なんて、やわらかで、あたたかそうで、どこまでもどこまでも深いまなざしなんだろう……!  ちなみに、ウィリアム自身はかなり色素の乏しい薄い緑色の目をしているため、まぶしさや光の強弱の変化にとても弱い。おかげで薄暗いところでも本が読めるし、三日月でもでていれば夜半にもものに蹟《つまず》かずに歩けるので便利なのだが。もっと瞳の色の濃い友人と比べるとどうもものの見えかたで損をしているような気がしないこともない。特に、暖色茶系の色……他ならぬこの彼女の虹彩の有するような色調……に対して、識別力が弱いのだ。遠いインドでできた親友のハキムなど、ほとんど真っ黒といっていいほど色の濃い目をしているからか、コーヒーや紅茶の微細な色合いをまさかというほど実にこまかく見分けるというのに。  ジョーンズ家ではきょうだい全員この系統で、パッと見、たいへん冷淡に、酷薄に非情に見える。だが、みな、感情が波立つと、血液の流れでもかわるのか、明らかに目の色がかわるタイプなのだ。静かに落ち着いている時はそっけないほど冷たいエメラルドグリーンなのだが、腹をたてるとそれが突然紫がかり、完全に立腹するとむしろ青に見えるものになる。意識が軽蔑やら退屈やら、より冷笑的な方向にいくと、緑がむしろ金色側に……より色をなくす側に傾く。思っていることをいちいち顔に出さないほうがいい社交にはまったく不向きの、正直すぎる瞳である。 「申し訳ございません!」  と彼女は言い、その柔らかに茶色い瞳は敏感に、いかにも温《あたた》かくそのことばを裏付けた。 「お怪我なさいませんでした?」  問いかけられ、答えを求められていることが意識にのぼってはじめて、ウィリアムは我にかえった。 「あ……いえ、平気です」  言いながらも、笑うことも、鼻をおさえている手を離すこともできない。乱暴をしてスッ転んだ幼いわんぱく小僧のように血と洟水《はなみず》をだらだら垂らしているのではないかと思うと、恥ずかしくておそろしくて、思わずうろうろと彼女の視線から目をそらさずにいられなくなる。  そうしながら、ウィリアムは、赤くなって謝罪のことばを繰り返す彼女の顔の他の部分……すなわち、眼と虹彩以外……を急ぎ盗み見た。  眼鏡とその陰の魅惑の虹彩を別にすればむしろ質素な、主張の少ない顔だ。鼻も口もほぼ無個性にちんまりしているばかりで、どこといって過剰なところがない。骨格や髪はさらりとあるいはすっきりとしていて、とりたてていうほどのなにもない。眉《まゆ》をひそめた懸念《けねん》の表情には媚《こ》びもわざとらしさもなく、象牙《ぞうげ》色をした肌の一層奥にもう少し陽にあたったらきっぱりそばかすになってしまいそうな星群がかすかに浮かんで見えるのが、若くてまだ容貌《ようぼう》をとりつくろうことを知らないさま、あるいは、容色などに頓着しない気取りのなさを思わせる。そういえば、彼女は紅《べに》ひとつ眉墨《まゆずみ》ひとはけ、つけてはいないようだ。ようするにないない尽くしだ。  多数の微細な、場合によっては無頓着になりそうな欠落を、あの特別の瞳が(そして眼鏡という本人はたぶん意識すらしてやしないだろう異色の小道具が)充分以上に補って、彼女をあきらかに非凡な、唯一なものにしている。なんとも心憎く眼を惹《ひ》く得難い存在にしているのである。  それをいうなら、そもそも眼鏡というのも美容や外見に心砕くうら若き女性としてはあきらかに邪魔な余計物で、年齢不相応な弱さや病気などの有らまほしくない欠陥《けっかん》を示唆《しさ》するものであるはずで、女性の魅力を損なう働きこそあれ、その逆ではないのが一般であろう。しかも彼女は女中、使用人なのだ! 健常に眼が見えぬ働き手など、足萎《あしな》えの使役馬も同然ではないか。あきらかに不的確、不適切、規格外である。いつその欠陥のせいで不測の事態や損害を招くかもわからぬ。そんな危険なものは早く厄介払いをするに限る。  だが、なぜだろう、なぜか不思議なことに、ウィリアムにはそういった数多《あまた》のマイナス要因がまるで気にならなかった。というか、むしろそれゆえに、それだからこそ、余計に熱情が加速したかもしれない。目と目があうと、いきなりズキンと心臓を貫かれたような気がした。いたいけな小動物の瞳をのぞきこんでいるようだった、などといったら、彼女に対してあまりに無礼になってしまうのだろうか。  大嫌いな留《と》め轡《ぐつわ》を、たんにそれが愚《おろ》かな客たちの要求で見栄えがいいからという理由で食《は》まされた黒《ダーキー》(前出『黒馬物語』の主人公である馬の幼名)が、あまりにみじめで可哀相《かわいそう》で、悔しくて悲しくてしかたなくて、すっかり馬の気持ちになりきって夢にまで見、だらだら涙を流した幼い日から、ウィリアムは「自分にはどうしようもない運命をジッと耐えているもの」に弱かった。劣悪な環境にいながら辛抱強くけなげに頑張るものに、ついグッときてしまうのだ。  ものいわぬ獣たちは、しばしばなにかを必死に訴えるような瞳をする。この時、眼鏡の女中のガラス越しの瞳もまた、そのようなものに見えてしまったのだった。  いや理屈や理由や分析はみなあとからもしやと思いついたことばかりで、この時彼はもうただ為《な》す術《すべ》もなくポカンと放心してしまっていたのだ。  心臓を貫かれて。  すなわち  恋に堕ちて。  彼女は階段を駆け降りていく。知らぬ問に脱げていたらしい彼の帽子が風に吹き飛ばされて街路に転げ落ちていくのを追いかけて。元気よく走りだした彼女がとっさに無造作にたくしあげたので、スカートが大きくひるがえり、真っ白いペチコートの端フリルと黒靴下と革のアンクルブーツに包まれた足首とが見えた。その脚の(予想どおりの)可憐なまでの細さ、筋肉質にキュッとしまったさま、迅速に機敏に軽やかに動くさまに、ウィリアムはさらなる好意と遠くかすかな欲望を覚え、そんな自分をすかさず嫌悪した。  きれいな女中《メイド》を見るとたちまちなんとかモノにできないかなと思うなんて、そんな俗物じゃないぞ、僕は! 「どうしたのエマ」  ポーチの奥、玄関ドアの向こうに気配が立った。  たちまち血液が逆流し頸筋《くびすじ》の毛がそそけ立ったのは、いましがたの小暗く甘やかな妄想のせいでばかりはない。この声を聞いたらとっさにパッと気をつけをして、必死に脳味噌をブン回さなければならない気がするのだ。いまもすかさず、惑星の運行の方程式や必死に暗唱したワーズワースが隊列をくんで脳裏《のうり》を行進していった。これぞまさしく条件反射。とっくに、忘れ果ててしまっても委細かまわなくなったものたちなのに、なお記憶の片隅に片鱗《へんりん》が残っていたらしい。  ふりむくと、彼女がいた。もうひとりの、別の彼女が。  思っていたほど年老いてもいなければ、思っていたほどヨボヨボに弱ってもいなさそうなミセス・ストウナーが、立っていたのである。髪ばかりは記憶より圧倒的に銀鼠《ぎんねず》色の割合が増していたが、質素というより厳格な色合いのあまり着心地がよさそうには見えない服や、天から吊られてでもいるかのように背筋も首もピッと伸ばした姿勢などはまるで変わらない。  そう、ストウナー先生は、女王の治世のはじめの頃に大流行したという背もたれすらない堅い椅子に慣れていた。座面のごく先っちょのほうに、顎《あご》を引き胸を張りあくまで背筋を伸ばした堅苦しい姿勢で腰かけたきり、ピクリともその姿を崩さないひとだった。ヴィクトリア朝前期の異常なまでに潔癖《けっぺき》で抑圧的で道徳の発露《はつろ》に腐心したひとびとは、背もたれなどというものは頽廃堕落《たいはいだらく》の象徴である、健全な肉体には必要がない、と強がっていたんだそうだが、……先生の場合はむしろ自尊心の問題ではないだろうか。  教《おし》え児《ご》にはあくまで一瞬たりとも気を抜かぬキリッとした姿をみせておきたいという。 「ご無沙汰いたしました、ミセス・ストウナー」 「まぁ。どなたさまかと思ったら」  先生はニッと笑った。とりすましている時にはそんなに大きくはみえない口なのに、いざ笑顔をつくると、薄い唇が予想外に横いっぱいに伸びる。しかも目はあまり笑っていない。最初にあった頃、こんな顔をされると、きっといつか取って食われるに違いない、あの犬歯は夜になるとニュッと長く伸びるのに違いないと思って膝《ひざ》が震《ふる》えだしたものだ。 「ジョーンズ家のウィリアムさまじゃあありませんか。ほんに久しぶりだことね。すっかり大きくおなりで」 「はぁ」 「けど……なんです、その顔は。おでこと鼻をどうかして?」 「これは……」  チラと外に目をやると、ちょうど彼女が戻ってくるのが見えた。手に帽子。  軽く息をはずませて、階段をかけあがってくる。急激な運動に軽く上気した頬《ほお》がますます美しく、また再び近づいてくれる予感に、ウィリアムの胸はどきどきする。  エマ。  さっき先生がなにげなく呼んだ名を、すかさず聞きつけて大切に拾っている。腹をすかせた仔犬がテーブルから落ちるパン屑《くず》のちいさなちいさな破片もぜったいに見逃さないのと同じ。  エマさんっていうんだ。  名前を知って眺めると、知らずに見つめたときより、ちょっと嬉しい。ほんの少しだけでも親しみが増したようで。  ああ、なんてアホな甘っちょろいことを。ダメだ。顔がしまらない。我ながらデレデレだ。  笑顔で礼をいって帽子を受け取る刹那《せつな》、頸筋にピリッときた鋭い視線でいやおうなしに思い知った。  そうだ。彼女は、この先生[#「この先生」に傍点]のところのひとなんだから……もし、彼女と少しでもお近づきになりたいと思えば、ストウナー先生の許可を得なければならない。すくなくとも、先生の目を盗まなくてはならない。先生という鉄壁をなんとかして乗り越えなければならないのだ! 「ちょうど開けたところに立っているなんて」  ミセス・ストウナーが詰め物をした椅子に腰掛けている。皿ごと手に持った紅茶をそっと音もなく啜《すす》っている。しかも、なんと、背もたれによりかかって! ウィリアムは己《おの》が目を疑った。  これぞ、過ぎた十年がもたらした大変化というやつに違いない。先生はたしかに年をとったのだ。弱った。もう昔のようではない。  さぁ、笑え。よろこべ。勝利感を味わえ。もっと鬼の首でもとったような気がしたっていいはずじゃないか?  なぜこう脳がぼんやりして、なにもかも現実感がないのだろう? 「ほんとに間の悪いこと。あなたらしいわ。……ねぇほらエマ、いつか話したでしょう。昔、住み込みの家庭教師をしていたことがあるって。こちら、そこの坊っちゃまよ。一番上の。おまえ、天下のジョーンズ家の大事な跡取りをドアでぶん殴ったんだもの、いまに多大な損害賠償を請求されるかもしれなくてよ」  彼女は、からかいには乗るまい、余計なことは一言も言うまいと決意しているかのようにキュッと唇に力をこめた。かすかに顔を赤らめたまま、無言で給仕を続ける。お代わりは? と目と所作で訊ねられたので、ウィリアムはカップをさしだした。  彼女の指が静かに伸び、差し出したティーソーサーを受け取ってくれる。彼女の腕が曲がり、重たそうなポットをゆっくりと傾けると、黒衣にかすかに雛《しわ》がより、ぱりっと糊《のり》の利いたエプロンに些細《ささい》な弛《たる》みができる。 「そう……ジョーンズ家といえばまったくたいしたものだったわ……破竹の勢いで、天下の一等地に次々に店舗をお増やしになっている最中で……」  受け取る時、どうも、と言うと、彼女はニコッと微笑《ほほえ》む。小さなめだたない笑窪《えくぼ》のなりそこないのようなものが片頬に一瞬だけ浮かんで消える。 「懐かしいわ。あの遣《や》り手《て》のお父上……お元気なの?」  彼女は歩く時にまるで音をたてない。スカートが(たぶんペチコートとこすれて)かすかにカサコソと鳴るだけだ。なんて小さな頭だろう。なんて細い首だろう。 「ウィリアム」 「あ……は、はい!」 「お父様のことを聞いたんですけど。お元気なの?」 「ええと」あわてて姿勢を正し、向き直る。「元気です。僕なんかより百倍元気です」 「そう。まぁね。憎まれっ子世に揮《はばか》るといいますから」先生は手の指を組み換え、まっすぐ顔をのぞきこむ。「そうそう、あなたに卒業おめでとうを言わなければ。どうでした、学校は」 「地獄《じごく》でした」 「……つまらないこたえね」 「どういえばいいんです?」 「あなたのお仕込みが大変役にたちました、とか、鍛《きた》えていただいたおかげで優等生になれましたとか」 「いいえ!」思わず口をついて出た。「先生に教わったことは、大いに邪魔になりましたから」 「あら」 「授業は退屈でつまらないし、学友はみんな救いようのないバカに見えてしょうがなかった。みんな先生のせいです」  ストウナー先生は唇の右端だけを掲げ、それは失礼、お気の毒さまだったわね、と横目を使った。 「まぁ、あなたのひねくれも天《あま》の邪鬼《じゃく》もいまにはじまったことじゃない。こっちが、いったいどうしてるだろう、たまには顔を見せてくれたっていいのにと思っている間は知らんぷりで、何度手紙をだしても返事も寄越さない。四年間もみっちりお世話をしてあげたのになんて冷淡な恩知らずだろうと思っていれば、こうして突然現れて、したり顔でお世辞を言う。イートンでますます皮肉に磨きをかけたんじゃなくて? ……で、オネショの癖はもう治ったの、坊っちゃま?」  ひどい。  そんな過去の恥を。 「とっくに」 「そう。それは良かった」  ちょっと棘《とげ》でひっかくと、短剣でズブリとやり返す。そう、それがこの先生だ、とウィリアムは思い出した。けっしてこども相手だからって手加減なんかしない。  急襲の目論見《もくろみ》はいまや完壁に潰《つい》えていた。先生はソファに免《もた》れることを自分に許すぐらいには柔らかくなったものの、まだまだヨボヨボでも懐古的でもない。ちょっとやっつけるどころか、へこませるどころか、まだまだ丁々発止である。感心させることができる日はともかく、単に対等に渡り合うことができる日すら、はたしていつか来るのかとうか。  こんなところにくるんじゃなかった、と、うなだれそうになった目の隅を、音もなく黒い服が横切る。ウィリアムは喉が干上がり頬が赤らむのを覚えた。いや。来てよかった。くる運命だったんだ。こなければならなかったんだ。  彼女を見つけるために。  彼女の存在を知るために。 「エマ、ちょっとカーテンを引いて。ここ、陽が目にはいるの」 「はい」  きびきびと窓辺に寄る彼女の背のしなやかさ、ほんの少しだけほつれ毛の落ちたうなじ。重たげな布をさばき、巧みに襞《ひだ》を寄せるその手指の爪は、清潔に短く切られて桜色だ。ふと誰か知り合いでも通りかかったのを見つけたか、窓外に微笑みかけてちょっと頷《うなず》く横顔の無邪気。  ああ。  彼女はなんて愛らしいのだろう。することなすこと、なんて魅力的なんだろう。  目が離せず、思わず鼻の下を伸ばしてしまった顔に、ふと視線を感じ、ハッとする。案の定、ミセス・ストウナーが訳知り顔でまじまじとこちらを見つめているのだった。  あわてて誤魔化して目を逸《そ》らしてみたが、しょせん無駄なのはわかりきっていた。 「なによ。メイドなんて見飽きてるでしょ。ごはんから着替えから朝から晩までなにからなにまで、大勢に順番によってたかって面倒みてもらって育ったんだもの」 「…………」 「それとも家内のことなら何でもこなす雑役女中《オールワークス》が珍しい? そうだったわ、あなたは昔から珍しい目新しいものが大好きよね。なにかというと興味をもって……ひとと違うことをしたがって……十年も経てばもっと変わったかと思えば」先生はキッとウィリアムを睨み、声を落とした。「まさか……」 「奥さま」  ドアを大きく開け、訪問力ー|ド《※》[#訪問カード/当時、訪問や面会のさい、名刺代わりに頻繁に使われていた。]を持って早足に入ってきて部屋を横切るエマに、ミセス・ストウナーはいいかけたことばを飲み込み、椅子に深くかけなおし、なに? とそっけなく表情を整えた顔をあげた。カードを受け取り、うなずく。 「グレアムさんだわ。バザーの件ね」 「お通ししてよろしいですか」 「だめ。今日は庭で逢《あ》うことにするわ。あのひとのテリア、絨毯《じゅうたん》に粗相《そそう》するんだもの。……ちょっと失礼」  立ち上がる。  なるほどどこかでキャンキャンと癇症《かんしょう》な犬の声がする。  ストウナー先生は足早に部屋を出ていく刹那、チラとウィリアムを振り返って、なにか釘でも刺すようなまなざしを一瞬投げ、肩をそびやかした。  ばたん。 「……うう……ああ」  ウィリアムは思わず顔を撫《な》で、からだを揺すり、全身の力を抜いて息を洩《も》らした。知らずしらずのうちに肩から背中からガチガチになっている。いまのうちに、とせいぜい襟を緩《ゆる》め、はあー、と音をたてて深呼吸をする。  そんな姿をいきなり曝《さら》け出《だ》され見せつけられてしまったエマは、くすりと笑う。 「だって、……すみません、どうにも苦手なんです」  否定するよりは、認めてしまうほうが楽だった。 「あの先生にはかないっこない。おっかないんです。あのひとに睨まれると、腹ぺこの虎の檻《おり》にいれられた気分です」 「奥さまがですか?」エマは目を伏せたまま、夫人の茶道具を盆に集め、周辺を布で拭《ふ》く。 「昔はもっともっと迫力満点で怖かったんですよ。父親以上に。とにかく厳しくて。四六時中|隙《すき》というのがないひとで。あのひとの目を逃れるものなんて世界じゅうになにもないみたいで」  することがなくなってしまったエマは、それでも立ち去らず、耳を傾けてくれた。ウィリアムとしては張り切って喋らずにはいられない。多少はものいいが大げさにもなろうというもの。 「手を抜いてなまけたり卑怯《ひきょう》なズルをしたのがバレると、ものすごく軽蔑《けいべつ》されちゃう。しかも、ほんとに悲しそうな、こんどというこんどは失望した、みたいな顔されちゃって。心臓のあたり掴《つか》んでしばらく無言になっちゃったりとかするから、僕のせいで、このひとはこのまま悲嘆とショックで死んじゃうんじゃないかって、こっちの胸がどきどきしてしまうんです。反省する時には、こういう椅子を壁にくっつけて、そっち向きに座らされました。自分で自分をとことんまで見つめてみろってことですよね。怒鳴られるか、いっそ鞭で打たれるほうがマシだと思いましたよ。だって、そういうのなら、一瞬ですむはずでしょう?」  鞭という単語がおそろしかったのだろうか、エマは無言のまま、ちょっとブルッと震《ふる》えた。 「いや、なにしろ先生はいつだってビシッと筋がとおってて、終始一貫していて、およそ感情を高ぶらせるってことがないですからね……親とか他のおとなたちはけっこうみんな、いい加減じゃないですか。この前は、ぜったいダメだ冗談じゃないって言ったことでも、次にはなぜかすんなり通用してしまったりする、なんてことが、よくある。だから、おねだりとか謝るのは機嫌のいい時を見計らって、みたいにしますよね。誰だって? ところが、そういうの、先生にだけは、まるで通用しないんですからね!」  長年ひそかに思っていたことを吐きだしてみて、再確認した。だから僕はあのひとが好きなのだと。やはり先生がそうとう好きなのだ、と。  好きなひとの居間にいるのだ、と思ってみると、ようやくほんとうに息が楽になってきた。もう宿題を出される生徒でもなく、やたらに叱られるこどもでもないと思うと、ホッとした。  もう一度|肺腑《はいふ》の底から溜め息をついて、重たい黒いものを全部吐きだしてしまった、その刹那、ふと、目がとまった。マントルピースの上に並べて飾られた肖像群に。  なにげなく気を惹かれ、立ち上がって近づいて、手にとって見た。  覚えのある一葉。 「僕だ」  なまいきにひとりでポーズをつけて、写真館で撮ってもらったものだ。 「うわぁ。これ……そうか。ここにあったんだ」 「どれです?」  フッ、とラベンダーが香った、かと思うと、エマがそこにいた。すぐそこに。抱きしめられそうなほど近くに。  彼女の耳朶《じだ》が、編み髪が、唇をかすめる。肩にはほとんど彼女の胸が触れていたかもしれない。単にウィリアムが持っている写真を肩ごしに覗き込もうとして、そんなことになったので、おそらくは、ごく自然な、無邪気でなにげない行動だったのだろうが。  それはウィリアムにとっては意表をつかれた一瞬だった。見知らぬ女性があってよい距離からすると、明らかに常識を破る近さだった。反射的に飛びのいてしまう。  鼓動がやまない。  どきどき激しくて、彼女に聞こえてしまいそうだ。  できることなら言訳したかった。イヤだったわけではない。近づいて欲しくなかったわけではない、これは単なる癖で習慣なんだと。  あるいは自分からもう一度、同じほど近くまでにじりよりたかった。  が、十数年のストイックな教育の成果は、彼の全身の神経と筋肉を縛り、司《つかさど》り、侵してはならない理論上の境界線を越境することをどうしても許してくれないのだった。  エマはいつの間にか問題の写真を手にしている。熱心に見入っているので、せめて、遠くから、指さして説明した。 「それは、確か、十三になった記念に撮ってもらったものです。その悪趣味の極みみたいな半ズボンにこれが似合うからって無理やり履かされた靴が痛いのなんの、そりゃあ大変でした」  彼女にもう一度笑って欲しくて、少し大げさに言ってしまう。 「すっごい窮屈で、指なんか曲がっちゃってるんで、きちんと立っているのがしんどかった。だから、そんな変な台かなんか借りて、手をかけて寄っ掛かってるんです。ほら、なんか半ベソ顔でしょ? こんなのもうやだ、沢山だ、一刻も早く勘弁してくれ、って、写真機を睨んでる」  エマは唇に指をあててなにか考えこんでいる。  ウケてほしかっただけなのに!  そんなに深刻な顔をして考えこまれてしまうと、どうしたらいいのか困ってしまう。 「あーあ!」しょうがないから陽気にふざけてみせる。「まいったなあ、これぞ若気《わかげ》のいったりきたりってやつで……ほんといって、今日まですっかり忘れてましたよ。まさか、そんなもんがあるとは思わなかったなあ……先生も先生です。こんなもん、後生大事に飾ったりしてくれなきゃいいのに」  エマは写真を近づけ、遠ざけ、ついには、ズバリ、ウィリアムの顔の横にかざすようにして見比べた。 「……確かにありますね。面影《おもかげ》が」 「う」ウィリアムは呻《うめ》いた。「そんなトホホ顔にですか?」 「全然気がつきませんでした……いつも、埃《ほこり》を払っていたのに。毎日お目にかかっていたのに」 「ああ」 「ということは」エマはまっすぐにウィリアムを見た。「はじめましてじゃあ、なかったんですね」  微笑んでくれればいいのに、エマは奇妙に静かな、マジメな顔をしている。そんな顔をすると、榛《はしばみ》の瞳が不思議に神秘的な深みを、あるいは、憂《うれ》いを帯びた。  なにも言えず、なにをどう考えたらいいのかわからず、ドギマギするまま、ウィリアムはただコクコクとうなずき、愛想笑いに唇をゆがめた。  エマは黙って顔をそむけた。十三歳のウィリアムの写真の額を暖炉の上のさいぜんまでと寸分|違《たが》わぬ位置にぴたりと置くと、いったんまた持ち上げ、エプロンの端をつかって、ガラス表面につけてしまった指の痕《あと》を丁寧に拭《ぬぐ》った。 「奥さまには、お子がありませんから……」またていねいに置き直し、ほんとうにこの位置だったかどうか、見る角度を変えて確認する。「きっと、息子さんのように思われていたんではないでしょうか」  そう、ここ。ここで良し!  ようやく納得がいったらしい。大きく一歩離れて、もう一度、暖炉全体を眺め、こくり、とうなずく。 「ここに飾るのはご家族のものだけです」 「そ、そうなんですかね……怒られてばっかりなのに」 「そういうかたです」  エマはちらりと会釈《えしゃく》をし、茶器を載せた盆を手にとる。では、と軽く会釈をして、あきらかに立ち去る気配だ。  そりゃあそうだろう。ここにもう用がなければ余所にいってしまう。家じゅうにたったひとりの雑役女中《オールワークス》なんだから、しなければならないことはてんこ盛りで、朝から晩まで休む間もないのだろう。 「あ……あの」  ウィリアムは不器用に声をかけた。どういって引き止めたものか、どういって気を惹いたものか。ちゃんと考えることもできなかったので、ただ意味もないうめきのようなものが漏《も》れてしまったのだった。  なんでしょうか? と、エマは小首をかしげている。  その姿が、従順に忠実にご主人さまのご用件を承《うけたまわ》る使役人そのものに見えて、ウィリアムの胸は黒インクに染まる。彼女にそんなことをさせたくなくて。まるで女中《メイド》みたいなことを!  もう少し、ここにいてくれませんか。  ここに、そばに、このままいてください。あなたの声をもっときかせて、姿を見せていてください。  それじゃバカすぎ、ウブすぎ、直截《ちょくせつ》すぎるだろうか? せめて先生が戻ってくるまで退屈しないように相手をしてくれたまえよ、とかなんとか、もうちょっと如才《じょさい》のない言い方をしないと……  えいちくしょう、そんなことが言えるか!  それより、仕事に不満はないかとか、休みはいつなのか訊《たず》ねるのはどうだろう。つきあっているひとはいるのかな。将来を約束した相手はどうなんだ。そもそもどんな男が好みなのか。  僕のこと、どう思う?  ああ、ほんとうに聞きたいのはそこだ。もし良かったら、恋人になってくれませんか。思い切ってそう訊ねたら、あなたはいったい、どう答えるんだろう。  ウィリアムが頭脳上の煩悶《はんもん》に冷や汗をかきまくり、実際にはただへどもどしてなにも言えぬのを見ると、エマも困ってちょっともじもじした。それから、ふと思いついたように言った。 「良かったです」 「……は?」 「写真に気付いてくださって。はじめましてのご挨拶が、ドアでゴツンじゃ、あまりにもあんまりですから」 「あ……ああ。……ああ! ああ、はい、なるほど!」  ちいさな妖精の乗る翼の生えた小馬のようなものが胸からぐるぐる螺旋《らせん》を描いて脳天まで舞いあがり駆け抜けていくようだ。  彼女は自分のことを気にかけてくれている。ドアでひっぱたいても構わない、どーでもいいやつでは「ない」という程度ではあるかもしれないとしても。  ずっと前から知っていた。  ああ、そうだよ。そうだとも。  そう思ってくれるなんて、とても嬉しい。  僕こそ。もしかするとずっと前からなにか神秘的な方法で知っていたんじゃないかと思う。きみのことを。ここに来る前から。いや、生まれる前からかもしれない。ずっと前から知っていて、待っていた。めぐりあえる日を。いまかいまかと。 「そのひと」にあえる日が、必ず来ると信じていた。  ありがとう、十三歳のウィリアム! へなちょこ顔の幼い僕。写真に納まって、そこにいてくれて。彼女に毎日きれいに埃を払ってもらっていてくれて。  ウィリアムの気持ちは高まりに高まって、いささか常軌《じょうき》を逸しかけた。たしなみも、遠慮も、無粋もみっともないもふられたらどうしようも何もかも忘れて、ただもう恋する若者の純粋本能のままの熱に浮かされたことばが口をついて出る。 「ねぇ、エマさん、あの、もしよかったらこんどの休みに……」  その時である。 「エマ!」  唐突に、さっき出ていったのとは違う扉が開いて、ストウナー先生が顔をだしたのは。 「はぁ。何か受け取ればそれですむのかと思ったら、ダメだったの。彼女と一緒に来て欲しいんだって。ちょっと出掛けるから、留守番お願いね」 「はい」 「という訳だから」と、くるりと向き直るストウナー夫人。「今日はこれまで。帰って」 「は?」  ウィリアムは唇を舐《な》めた。そこはカラカラに乾ききってひびわれそうになっていた。  そんないきなり。 「だって前からの約束なのよ。わたし、復活祭のバザーとやらの係なの。教会の修繕費用のタシにするために、なにがなんでもそれなりの売り物を集めて来なきゃならない。あっちこっち歩くのよ、ご寄付をお願いってやつをしに!」  ほんとウンザリ、とポーズを取ると、 「せっかく来てくれたのに悪いけど、急なあなたもいけないんですからね。婆さんの隠遁《いんとん》生活にだって何かと予定ってものはあるんですから、こんどからは事前にちゃんと手紙で都合を訊ねてからにしてちょうだい。それが社交の常識でしょう。予告なしに訪問するなんて不作法すぎます。お育ちが知れると言われてよ。だいたい恥をかくのはあなたじゃなくて、お父様と、教育係だったこのわたしです……そこのところ、わかっていて?」 「…………」 「お返事は、ウィリアム」 「はいッ!」  とうとうと捲《まく》し立《た》てる夫人にくっついて歩くうちに、もう玄関先まで連れて来られてしまった。エマが、杖と帽子を差し出してじっと停《たたず》んでいる。  とっとと帰れ、と言わんばかりに。  恋する青年のハートは引き裂かれ、ひび割れ、血をふきだしそうだ。 「そうガッカリした顔しなさんな。近いうちにまたおいでなさい。次はじっくり話をきかせてもらうから。それでいいわね?」  ウィリアムはエマを見た。  顔色からも瞳からもなにもなにひとつうかがえない。  嘘でも演技でもいいから、もう帰らなきゃならないなんて残念です、みたいな顔をちょっとして見せてくれたら、いまにもバラバラになりそうな千切れたハートが素早くパッチワークできるのに!  溜め息まじり、彼女の、ちいさな白い手から、帽子を受け取ると、またかすかにラベンダーが香った。  もう二度と離れない、とウィリアムは思った。彼女はラベンダーの香りのする女性であり、ラベンダーは彼女の象徴だ。僕はこの香りを偶然|嗅《か》ぐたびに彼女のことを想うだろう。忘れがたいひととして。その永劫《えいごう》の琉珀《こはく》の瞳の星空に遊泳する自分を夢見て泣くだろう。  我ながらあまりの女々しさと急な詩人っぷりにようやく少々気恥ずかしくなり、帽子を深々かぶりながら、決心する。いいや諦めるもんか。まだこれからだ。これははじまったばかりだ。 「それでいいわね?」  もう一度訊ねられた。 「……はい」 「よろしい」  問題の顔面打撲現場に再び立つ。そのことをネタになにか冗談でも言って少し粘《ねば》ろうかと思ったが、ミセス・ストウナーがサヨナラ、とあっさり手を振っている。一刻も早く追い出したそうなので諦めた。ここはグズグズせずに、ひいておこう。  幸い、あまりに急に帰り支度《じたく》をさせられたおかげで忘れ物をした。ちいさなタネは仕込んでくることができたというわけだ。通用するかどうかわからない、運を天に任せたようなタネではあるけれど。 「ではまた」  帽子に手をかけて、挨拶をして、ウィリアムは階段を駆け降りる。  裏庭のポーチのガーデンチェアにお茶菓子ひとつなく待たされた老嬢シャーロット・グレアムは、ミセス・ストウナーが「いま支度をするから」と顔を出すと、またこのまま置き去りにされてなるものかとばかりに、あわててピョンと立ち上がった。癇症にキャンキャン吠え続けるテリアの雑種を腕に抱いたまま、ミセス・ストウナーの後にくっついて必死に歩いた。 「ねぇケリー、いまさっき、男のひとの声が聞こえたような気がするんですけど、誰なの?」  ケリーがこの年配の女性にしてはかなり大柄なのに対し、彼女はあまりにも脚が短かったので、ほとんど軽早足の小走りである。 「耳聡いこと。ウィリアムよ。ジョーンズ家のご長男」 「へぇ。……って、ええっ、ちょっと! ジョーンズ家って、もしや、あの海外貿易の『ジョーンズ』の?」 「そうよ」 「アッサム紅茶とか、絹のドレス地とかで、アッという間に莫大な財産を築いた、あの大ジョーンズさん? ほんと! あんたお知り合いなの!」 「そうよ」ケリーはスタスタ歩くばかりで振り向かない。「前に言わなかったかしら、あそこんちで家庭教師をしていたことがあるって」 「聞いてないわよ。いいえ、聞いていませんとも、そんなこと聞いたらぜったい忘れるわけないもの、だって、ねぇ、すごい話じゃないの!」  興奮と好奇心のあまり、友人の寝室にまでずかずか踏み込んでしまっていることに気付かない。あまつさえ、友人のベッドのぴったり整えてあった掛け布に無遠慮にもさっさと腰をおろし(短い脚先が床から浮き上がる)、ヒシと腕に抱いていたクシャクシャ毛の犬がやたらにもがくものだから無意識に放してやってしまった。  犬はさっそく掛け布をふんふん嗅ぎ回る。 「だってジョーンズっていえば、たいした躍進よ! ピムリコのほうにまた新しい店舗をだしたでしょう。ロンドンだけでももう確か、ひいふう、四店めじゃない? 妹のとこのローズなんか三日にあげず通っているわよ。あたくしはまだ行ったことありませんけど。なんでも、最新流行のレース地をヤードじゃなくきちんと模様単位で売ってくれるのが実に客思いで素晴らしいんですって? ローズったら、どうせ買えもしないくせに、見るだけタダだから、目の保養だからって、誘ってはくれるんですけど、まぁ、そんな知らないはじめての場所に出掛けるっていうのも、この年になると億劫ですしねえ、長く歩くと関節も痛むし」 「そうなの」  ケリーは衣装タンスをかきまわし、コートをさがしている。ほとんど身をいれて話を聞いてやしない。 「けどさぁ、あれよね」届かない脚をぶらぶら。「言ったらなんですけど、客思いだってことはさ、つまり、媚びを売ってるってことじゃありませんかしら? だから、あそこは所詮大衆相手のまま、ほんとうの上流のお客なんかつかないとも言えると思うのよ。だってねえ、そりゃあそうよねぇ、いくら羽振りがよくても、額に汗して働くなんてとても下世話なことですもの。貴顕《きけん》のかたがたというのは一生なーんにもしないで、ご先祖の遺産と莫大な地所からのあがりを好きなだけ使って優雅にお暮らしになるものでございましょう? その点、成り上がりのさもしさっていうか、なにがなんでも成功してみせる、みたいな、卑《いや》しい根性っていうのは、こう申してはなんですけど、ちょっと匂うでしょう、そういうのって、簡単に抜けるもんじゃないとわたしは思いますけども!」 「お待たせ」ようやく着ていくものを見つけて羽織りながらなにげなく振り向いたケリーは、たちまち眉を険《けわ》しくした。「シャーロット! その犬を捕まえて!」 「あら? え? トビー? トビーちゃんったら、どこにお行き?」  犬、と言われて、自分のことだと過《あやま》たずわかったのだろう、ストウナー夫人の古くはあるがそれなりに趣味の良い掛け布の豪華なフリンジ部分を両前肢でしっかり挟み、念入りに情熱的に奥歯の掃除をしていたトビーはハッとして顔をあげ、たちまちギュッと睨まれた。テリアは弾んで飛び下りて走り、いきなり立ち止まってブルッと震え、鏡台《ドレッサー》前で滑って転んでその場にそのまま腰を抜かす。そこで、エッエッと良からぬ音をたて、全身を痙攣《けいれん》させはじめた。小さな飾り|敷き布《ラグ》の上に、小さな胃から逆流したものをぶちまける。 「あらあ」シャーロットはおろおろした。「あらあら」  たっぷり吐いてしまうと、犬は尻に帆かけて逃げ出した。 「エマ!」ケリーは叫んだ。「エマ、ちょっと来ておくれ!」  女中は戸口に顔をだした。 「またよ」ケリーはホカホカ湯気をあげる不気味なものを指さした。「すまないけど、なんとかしてくれるかしら?」 「わかりました」エマはうなずいた。「でも、あの……」 「なにか?」問いかけて、エマの手が胸元に抱くようにして持っている見覚えのない品に目をとめる。光沢のある純白の、たぶん小羊革《キッド》なのだろう、いかにも柔らかくなめらかにぴったり来そうな。真新しい。「……手袋?」 「お忘れになったみたいで」エマは言った。「クッションを置き直していたら、出てきたんです。急げば、追いつけるかも」 「いいわよ。そんなの」ストウナー夫人は手を振った。「どうせまた来るって言ってるんだし」  シャーロット・グレアムは、逃げるテリアをようやく追い詰め抱き上げて、この悪い子、ほんとに悪い子、とキイキイ声でかたちばかり叱ってみせている。 「天下のジョーンズの跡継ぎ坊っちゃまですもの、まさかその一足しか持ってないってことはないでしょう。なくしちまったとしたって、たいして困りは……」  エマの手。  柔らかそうな手袋を、大切に、そっと握りしめたその指。  視線をとめて、ケリー・スウトナーは微笑んだ。  ははあん。あの子ったら。知らん顔してずいぶんと小癪《こしゃく》な手をつかってくれたじゃない? 「そうね。確かに。まだそんなに遠くには行っていないだろうから、追っかけて、届けてやってくれるかしら? あの間抜けが、たいそう高価なものをなくしてしまったことにドキンとして、怖いお父様にお尻をぶたれないように家出でも企《くわだ》てるといけませんからね」  この皮肉な冗談を真にうけて、エマも、犬を折檻《せっかん》しているふりをしながらこっそり聞き耳をたてていたシャーロット・グレアムも、驚きにたちまち目を丸くした。 「さぁ、お行き!」 「あ……はい、いってきます」  あわててスカートを翻して駆け出すエマの後ろ姿を、にんまり笑って見送って、「シャーロット」ミセス・ストウナーは小柄な友人を見下ろした。「そっちの隅を持ってちょうだい」 「え、わたしが?」 「他にいないでしょうが」ミセス・ストウナーは冷たく宣言した。「奥までシミちゃう前にとっととなんとかしないと。今日という今日は逃がさないわよ。あんたにも手伝ってもらいますからね!」  日が翳《かげ》り、あたりは急に冷え込んできた。  ウィリアムが建物の角から目だけ出して通りを覗きながら上着の前を掻《か》き合《あ》わせていると、ぶひひひひん、と、あたたかな息がかかった。振り向くと、黒く柔らかな鼻がすぐそこでもひょもひょ動いている。芦毛の馬トゥイーティーと、馬車屋のカスバートだ。 「よう旦那。乗ってくかい」 「いまはいい。ひと待ちなんだ」  へえ、とカスバートは細い目を互い違いにした。「変わった待ちかただな」  まぁ、そうかもしれない。確かに、これじゃあ、追剥《おいはぎ》や悪漢が獲物を物色しているみたいだと我ながら思う。神経をピリピリさせて、きっと、いかにもなにかを企んでいるような顔をしていることだろう。  なんてこった。  僕はいったいなにをしているのか。  どうかしてる。姑息な演技だの、だましの手練手管《テクニック》だの。うまくできるわけもないのに、なにを必死に頭脳を絞って。  そもそも、愚直なまでにこころに真っ正直だったり、春夏秋冬あけすけで、首尾一貫してありのままで、誰にたいしても一切ごまかしやら隠し事やら裏表やらがない、「できない」というのが、自分という人間なのではないか?  わざわざ寒い思いをしてこんなところで待ち伏せしていたとしても、所詮《しょせん》は馴れぬ博打《ばくち》打ち、あたるも八卦《はっけ》、あたらぬも……  おっと!  なんとなんと。ありがたや。幸運の女神は僕を応援してくれるおつもりのようだぞ。  彼女が駆けてくる。手袋を握りしめて、軽やかに走ってくる。眼鏡を時おりキラッと光らせながら。軽く息を切らしながら。エプロンごと制服のスカートをたくしあげて足さばきをよくした恰好が、若々しい仔鹿のよう。しばらく走って、立ち止まって見回す。  ウィリアムはぶらりと歩きだした。イタリア歌劇の伊達男《だておとこ》の洒脱《しゃだつ》な歩き様を意識して、ちょっと尻っぺたに力をこめて。背筋を伸ばし、軽く弾むように。ただしステッキを振り回すのはやりすぎだ。 「がんばれ」  低く囁《ささや》きながら、片脇をカスバートの馬車がゆきすぎる。パカパカと。  蹄鉄の音が遠ざかるや、みるみる背中に近づいてくる軽やかな駆け足の足音に、あまりに耳をすましていてはいけない。早く気づきすぎてはいけない、露骨に嬉しそうな顔で振り向いてもいけない。  手袋を差し出されたら、そこでちゃんとビックリしなくてはいけないんだぞ。いいか僕は、まさかそんなものを忘れてきたなんて気付いてもいないし、思ってもみていないのだからな!  いきなり厄介なことを言い出すなよ。焦るな。あわてるな。一歩ずつだ。今日のところは、わざわざ追いかけてきてくれた親切に相応《ふさわ》しく、きちんと礼儀にかなった誠実な振舞いってやつをこころがけるんだ。  紳士らしく。  男らしく。  余裕をもて!  ああ、でも、もう一度あの顔を、あの瞳を、間近なすぐそこに見てしまったしたら。  いったいこの僕に、ちゃんとできるものなのだろうか。うまく隠しておおせておくことが?  こんなに乱れる鼓動を。ついニヤけてしまう頬を。賛辞と憧れを。ひとめぼれを。  彼女を愛してしまったということを。 [#改丁] [#ここから3字下げ] The Novel Emma story 2 " Glasses "  第二話 眼鏡 [#ここで字下げ終わり]  エマは仰向《あおむ》けのまま、うっすらと目蓋《まぶた》をあけた。二三回|瞬《またた》きをする。  あたりは暗い。真っ暗だ。  小部屋の屋根窓《ドーマー》には窓掛《カーテン》はない。街灯か星明かりがあれば、多少なりとも光が差し込むはずだった。今朝はずいぶん雲が厚いのだろうか。  夜明けにはまだ間がある。  ふとんから出して伸ばした手がひいやりした。屋根裏の使用人部屋には暖房はない。最上階なので、下のぬくもりが登ってきてある程度は溜《た》まるが、壁や窓は古びて隙間風《すきまかぜ》を通す。前日のあたたかみは夜の間にみな消えてしまうに等しい。冬将軍のぐずぐずと去りかねているロンドンの大気は冷たく湿っていて、寝間着からはみだした腕の若い素肌を一瞬のうちにキュッとひきしめた。  肘《ひじ》をついて上体を起こしながらベッドサイドに置いた小椅子《こいす》の上を手さぐりし、なによりも必要なものをまず見つける。眼鏡だ。これがないことには、なにもできない。  蝋燭《ろうそく》を灯《とも》す。  眼鏡のレンズに炎のオレンジと黄色が反射する。  エマの吐息《といき》が白い球になる。  水差しに残っていた水を使って、解いて垂《た》らしていた髪をすばやく編み上げ整えなおす。てきぱき手早く着替えをする。ついでにいま這《は》い出《だ》したばかりの寝床をサッと直す。ほとんど音はたてない。  蝋燭を手にエプロンをかけながら足音を殺して階下に降り、用足しをすませるとすぐに台所にいく。火を壁の小さな燭台《しょくだい》にうつしておいて、|調理器具《キチナー》前の床に跪いた。  朝の大仕事、コンロ掃除の開始である。  この家の箱型レンジは大型で、火床の左右にパン用とロースト用のオーヴンがつき、後ろの壁側にたっぷりした|湯沸かし《ボイラー》が内蔵されたものであった。毎晩安全と節約のために火を落とすが、朝はやい年配の女主人に目覚めのお茶を給仕するためには、その少なくとも小半時《こはんとき》前にはレンジに火をいれなければならない。そして、それには、さらにそれよりも以前に、いったんまず徹底的に掃除をする必要があるのだった。  燃料が石炭であり、炎に生じた熱がオーヴンをあたためるような構造である以上、器具内部に張りめぐらされた煙管には絶えず煤《すす》がつき、降り積もるのが可能なスペースがあればすかさず少しずつ溜まっていく。溜まりすぎればドサリと落ちるし、炎の勢いが充分強まってあたたかな空気が上昇気流を作り出す前に外から風でも吹き込もうものなら、軽くて細かな煤が舞いあがり、部屋じゅうに飛び散ることになる。屋敷内を常に美しく保《たも》ち、炎を扱う危険な器具の厄介《やっかい》な目詰まりを防ぐには、来る日も来る日も欠かさず清掃を、それも器具の内部のいりくんで煤のつきやすい部分を隅から隅まで丹念に丁寧にきれいにする以外に方法はなかった。  居間にある全館暖房《セントラル・ヒーティング》用の巨大暖炉の清掃はあまりにも大がかりで専用の道具が必要であったため年に数回専門の煙突掃除人《えんとつそうじにん》に任せる他なかったが、台所における火の管理と始末は、どこの家でも、家庭の主婦や使用人たちの過酷《かこく》で厄介な日常仕事のひとつなのだった。  ぼんぼん燃えている最中にはとうぜん熱くて掃除などできるわけがないから、それは火の消えている時間帯に、つまり毎日早朝、目覚めてすぐ、部屋が一日でいちばん冷え込んでいる刻限に行うしかないことになる。  ロンドンは緯度の高い寒冷地であり、石造りのたてものは冷気を溜め込む。真夏のさかりのごく短い期間をのぞけば、火を焚いていて「暑い」と感じるようなことはまずなかった。貧しいものたちはどうせ使わずにはいられないからそれで暖房も兼用とする調理用ストーヴのほのかなぬくもりにあわせて分厚く衣服を着込み、比較的裕福なものは静かにちょろちょろと光と熱をもたらしてくれるマントルピースの周辺に家族がみな無事に集《つど》う日々を幸福に思い、絶えず炎を燃やすことができる豊かさを享楽《きょうらく》するのだった。  その心地よさを保障《ほしょう》するのが、毎朝の清掃である。  長柄のブラシ、炉ブラシ、藺草《いぐさ》のブラシなどさまざまな掃除用具を部分ごとに使い分けて、火箱を片づけ、燃《も》え殻《がら》を掃き清め、灰溜めの灰を掻《か》き取《と》り、煙管を拭《ぬぐ》う。煙道は一本のこらず確実に、煤を払わなければならなかった。オーヴンそのものは食品調理に使うのだから、余計に細心の注意が必要だ。内も外も美しく磨きあげ、濡らして洗い、よく乾かす。それから、こんどは外見にとりかかる。木切れと反古《ほご》と焚きつけの細かく割った薪《たきぎ》を火格子《ひごうし》に並べ、火をつけたなら、鉄の箱全体を黒鉛で磨きたてるのだ。炭素と鉄の混合物は若干のテレピン油をつなぎにして、棒状にかたまっている。レンジ磨きは、革靴に靴墨を擦り込むことに似ている。靴磨き同様、黒鉛をつけるためのブラシ、余分についた黒鉛を掻き落とすためのブラシ、艶出し用のブラシ……と、これまた多数のブラシを過ちなく使い分けなければならない。レンジが温まると美しい艶がでてきて、作業するものにひそかな満足感を与える。ただし、調子にのって塗りすぎてはいけない。鍋を置く部分や湯沸かしには、けっして塗ってはいけないのだ。把手《とって》などの真鍮《しんちゅう》部分は布で磨き、金にも見紛《みまご》うほどぴかぴかになるまで輝かせる。ここまでしてようやく、一段落だ。  どんなに丁寧に完壁にこころをこめて清掃しようとも、あしたになれば、ほんの一日たてば、またもとの木阿弥《もくあみ》、今日とまったく同じことがらを徹底的にやりなおさなければならない状態になってしまう。とんだシジュフォスだ。  しかも、堅い床に長時間|膝《ひざ》をついたままでいたり、不自然な中腰《ちゅうごし》で力をこめねばならないことも多いこの作業は、多岐にわたって複雑玄妙、細かな熟練を必要とし、どんなに工夫しても道具を使ってもその苦労を軽減する方法はあまりない。しかも場所が狭いので、たとえ手伝う手があったとしても、何人もかかって分担することもできない。したがって、やたらに時間がかかった。  これでも箱型レンジであるだけまだマシなほうではある。泥炭《ピート》を産する地方や、古い家や極貧《ごくひん》の家では、いまだに日々の調理に直火式のストーヴやレンジを使っているらしい。そのようなものは原始的であるだけに調節が困難であり、扱いが難しく、燃料とする石炭の質の変動にも過敏に反応する。ともするとろくに温《ぬく》もらなかったり、鉄の桟《さん》が溶けるほど温度があがってしまったりする。そのような火床を毎日調理のたびに使わなければならないとしたら、いつも、やけどや大怪我の危険と背中あわせということだ。  エマは幸運である。  たとえば、掃除が終わるとまずおのれを清拭《せいしき》しなくてはならなかったが、ふつうの家なら、何十段へたすると何百段もありかねない狭い階段をぐるぐる昇って(キッチンはかならず一番下に、女中部屋はかならず最上階にあるので)自室までもどり、しかも重たい水をいちいち運びあげて、手や顔やからだをよく洗いなおさなくてはならないところだ。朝食の準備にとりかかるには、汚れ仕事の痕跡《こんせき》は不潔すぎるからである。  女主人ケリー本人をのぞいてはこの家に住んでいる唯一《ゆいいつ》の人間であるエマには、もうすこし合理的なふるまいが許されていた。すなわち、この場で、キッチンの大釜に蓄《たくわ》えられてある昨日の残り湯を使って、手や顔の汚れをのぞき整えることができたのである。  火床の清掃は、雑役女中《オールワークス》の彼女に与えられた家事作業のうちでももっとも重労働で困難なもののひとつだったが、エマとしては、実は、けっして嫌いではなかった。  あらゆる一日が、いつも、この地味で気骨《きぼね》の折れる作業によってはじまることも、けして厭《いや》だとは思っていなかった。  無骨でどっしりした鉄のかたまりに触れていると、なにか、大きくて立派なものに仕えているような、敬虔《けいけん》で安らかな気持ちになった。しかもこの大変な清掃さえすんでしまえば、この器具は火という太古の昔から人類を魅了してきた奇跡を孕《はら》み、光とぬくもりを生み、あらゆる美味しい食べ物を取り出すことのできる魔法の道具とも舞台ともなるものなのである。いわば、家じゅうでいちばん貴重なものであったし、火床のそばは、この清掃の時間帯をのぞく一日の大半の時間、どこよりも居心地がよく、かつ重要な場所になる。  そんなものに携《たずさ》わっていられるというのは、素晴らしい、誇らしいことではないか?  こうして、屋根と扉と寝床のある家屋のなかにいつも安全に暮らさせてもらえているだけでも、ほんとうに、どんなにか有難いことであるか。  この力強くて便利な(たぶん高価なのだろう)器具がここにあり、むろん託され任された範囲ではあるが自分の裁量で自由に使ってかまわないということが、特権であり幸福でなくてなんであろう? 感謝と喜びの念があれば、奉仕は単なる苦痛ではない。  しかも、掃除というのは単純なもので、やればやった分だけすぐにその成果が眼にみえるかたちとなってあらわれる。きれいになったかならないかは誰がみても一目瞭然《りょうぜん》だ。毎日の地道な継続が翌日の作業をらくにするし、ずっと続けていくことが大きな価値になる。もし乱暴にいい加減に手抜き作業をしていたなら、やがては大切な器具に不具合が出たり、壊れて動かなくなったりするだろう。なるべくそうならないように、そうなる日ができるだけ先のことになるように、こころをこめて手入れをすることができれば、自分をまじめで有能だと信じていることだってできるではないか。  かくて労働は祈りとなり、調理用ストーヴは一種の神殿となり、女中はあたかも神聖なものに仕える巫女《みこ》のようなものとなり、眼にみえぬほど細かな灰の粒の最後のひとかけらまでもすべて拭き取ることは、彼女の素朴な魂《たましい》を平穏《へいおん》にすることと等しいのだった。まして、一心に働いたあと、熱くはないまでもうっすらあたたかな水で全身ござっぱりとすることができると、ああ、これで、今日もはじまるのだという実感が持てた。  さて、今朝も、いちばん困難な部分が無事終わった。コンロもエマ本人もすっかり綺麗になった。  顔がうつりこみそうなほどピカピカになった黒鉄を、フキンを手にした指先で、愛しげにそっと撫でて、最後のひと拭きとし、エマは額のほつれ毛を腕でかきあげながら、思わずニッコリした。  それから仔鹿のように身を翻《ひるがえ》すと、その他、朝に必要とされるひととおりのしごとをくるくるとこなしはじめた。  玄関を開け、マットを棒で叩いて埃を出し、外部アプローチの階段を完壁に清める。室内にとってかえし、昨晩のうちに寝室の扉のすぐ外の廊下にだしてあった女主人のブーツを取ってきて、手入れをする。居間の空気をいれかえ、雑然となった部分を片づけ、埃を拭き、塵《ちり》を集め、明かり取りやガラス窓の曇《くも》りを拭く。まだ寒いから、キッチンのストーヴだけでは暖房に足りない、居間の暖炉にも火をいれねばならない。  春は浅く、女主人の老いた身体には部屋の空気があまり冷えているのは毒になる。汗ばむほどあたためておく贅沢《ぜいたく》は必要ないが、好きな椅子《いす》にじっと座っていてもうっかり風邪をひかない程度にはしておかなければならない。  火箱の底の鉄板に濡らして硬く丸めた反古を置き、粗朶《そだ》と麻の茎《くき》のつけ木をあんばいし、それらから熱がうまく効率よく伝わるように石炭のなるべく小さなカケラを並べる。もうすっかり馴れて、ごくすこしの手間で火をつける自信もあるが、はじめて任された頃にはたいへんだった。コツも加減もわからず、何度も何度も失敗をしてしまった。燻《いぶ》るばかりで炎があがらず、石炭に火をうつすことができず、部屋じゅうをやたらに煙だらけ煤だらけにしてしまったり。貴重な黄燐《おうりん》マッチを何本も何本も消費してしまった時には、ほんとうに申し訳ない気分になったものだ。  長柄の棒の先に灯油をひたしたタンポのついた道具にマッチの火をうつし、焚きつけに点火した。みるみる明るい火の手があがり、徐々に燃え移って、大きくなっていく。無事を眼で確認してから、もう一度新鮮な水を汲みに行き、こんどは銅のやかんを火にかけ、茶を滝れる用意をはじめた。女主人の朝食のしたくだ。  つくりおきのスコーンにドライフルーツをそえるなどして慌ただしく準備をしながらも、ちょこまかと歩き回って二ヶ所の炎の安全を確かめた。ようやくキッチンでも居間でも石炭が順調に燃えはじめ、安定した。こうなってしまってくれれば、当分は目をはなしても大丈夫だ。  どこかでチリンチリンと鈴がなり、牛乳屋がいつもの売り掛け声をあげながらおもてを通っていく音がした。顔をあげれば窓の外はいつかすっかり白《しら》んでいる。鳥たちが飛ぶ。ロンドン雀《すずめ》が餌稼《えさかせ》ぎにいく群れだ。もう朝だ。  小銭を持って戸口から駆けだし、共同給水場のあたりで、配達の三輪手押し車に追いついた。牛乳屋のマシューの自慢の銀色大容器《チャーン》のまわりにはあちこちの女中《メイド》やこどもや老人たちがてんでに容器を持って押しかけて、朝の寒さに負けないように互いにからだをくっつけあったり、ちょっとおしくらまんじゅうをしたりしている。白いモヤのような息の固まりと会釈《えしゃく》やおはようの短い挨拶《あいさつ》をかわしながら、エマも凍《こご》える路面に静かに時おり足踏みをして順番を待った。石畳《いしだたみ》の地面はしめっぽく、半《なか》ば凍結し、泥とも馬糞ともつかぬ黒い固まりで半ばじけじけしている。それでも、もう春がすすんでいる証拠《しょうこ》に、霜のつきかたがだいぶ薄い。  やがて、順番がきて、幸いにも売り切れてしまう前にミルクとクリームをそれぞれ缶にとりわけてもらうことができた。ああ、よかった! 奥さまに、お好きな美味《おい》しいクリームつきでスコーンを召し上がっていただけるわ。エマは微笑《ほほえ》む。  キッチンに戻る。コンロに砂をぶあつく重ねて温度調節をするための皿をいれ、スコーンがじわじわあたたまるようにセットすると、磨きあがったブーツを片手に、沸き立てのお湯のジャーをもう一方の手に、女主人の寝室まで昇っていった。最初はなるべく足音をたてずに。戸口の外にブーツとジャーをおいて、すぐにとってかえし、降りながら、腕まくりをしていた袖《そで》をおろしなおしてきちんとボタンをかけた。もう一度こころをこめて手を洗い、お茶をいれる。皿やカトラリーを整える。  すっかり支度が揃《そろ》うと、それを携え、こんどは、少しだけわざと足音をたてながら、ゆっくりと昇った。  ノック。低くいらえがある。 「おはようございます」  エマは女主人の寝室にはいった。すぐに紅茶と軽食の載った盆を寝台の横のしかるべき場所にあるワゴンにそっと置く。目覚めて起き上がろうとする女主人を助け、枕を背中にあてがいなおし、肩にショールをかけてやる。  女主人の全身にサッと目をやって、かわりのないことを確かめる。だいじょうぶ。奥さまは元気。  すぐに窓辺に立っていって順繰《じゅんぐ》りに窓掛《カーテン》を開け、朝の光を導きいれる。強い光があるじの顔にけっしてまぶしくあたらぬよう、そっと巧《たく》みにあんばいする。  ケリー・ストウナーは羽根布団《はねぶとん》に腰から下をつっこんで両手をだらりと人形のように投げ出した恰好のまま、ゆっくりと覚醒《かくせい》していく身体を味わった。やれやれ。なんてことだろう。重たくてぎしぎし。でも、今朝もなんとか起きられたようだわ。  おかげさま。  わたしはまだ生きている。  両手で目をこすり、部屋を眺める。  年若い女中《メイド》は、体重などないかのように軽《かろ》やかにてきぱきと動いている。贅肉《ぜいにく》も、関節のきしみも、一晩眠ったぐらいでは解消しっこない疲労も、彼女にはまだない。元気いっぱいだ。  恨んでもしかたのないことだと知ってはいるが、かすかな妬《ねた》ましさを覚えなくもない。  美や健康は……幸福そのものでさえも……金銭である程度|贖《あがな》うことができるかもしれず、富裕層であればあるほどたっぷりと享受できるものであるかもしれないが、�時�ばかりはそうではない。それは王にも貧民にも等しく流れ、善人も悪人も贔屓《ひいき》することがない。大事に大切にこの上もなく貴重なものとして一瞬一瞬を味わいつくすように使うものにとっても、退屈してただ無駄に無益《むえき》に浪費し蕩尽《とうじん》していくものにとっても、同じように一日は二十四時間であり、夜の次には朝がくるものなのだ。  二十歳をわずかに越えたばかりのエマの頬は陶器のようにすべすべとしていて健康な生命力のあかしであるよい血色をかすかに透かし、朝日の中で輝いている。その骨はまっすぐで、筋肉はよく締まっている。その頭脳は明晰《めいせき》で、大量の余裕を有している。  しゃきしゃき動く彼女の影が部屋の床を飛び回るさまときたら、ほんとうに、バレリーナか妖精のようね……!  そう思うと……五十数年もの年月を生き、所与の時間の大半を既に使い果たしてしまったことをつくづく感じているケリー・ストウナーは……なんともはがゆい胸苦しさを覚える。  そう、自分の人生はもうほとんど終盤だ。あとは、これまで作ってきた道筋のまま、勢いのまま、ただ自然に流されていくだけ。  歯を食いしばって乗り越えなければならない壁などもうひとつもない。果たさなければならない約束もない。惑い悩むことはない。思い残すことなどなにもない。とっくにそうなはずで……それはつまり、あとは主のみもとに召されるまで、おだやかに心安らかに特になんということもなく日々を過ごせばそれで良いものを、それは楽でけっこうだと思えばよさそうなものを、どこかが奇妙にスウスウするのはなぜなのだろう?  なにか、仕残したことでもあるだろうか?  この老骨に、まだ、やっておけることがあるとでもいうのか?  このまま墓にはいるとしたら、悔いになってしまいそうなことがらが……?  エマは片手でうまく襞を寄せた布をひとつずつタッセルで束ね、ドレープの流れや紐の具合を丁寧にたしかめている。まるでこの部屋のとるに足りない小さな窓枠ひとつずつが、高価な絵画の額縁ででもあるかのようだ。どうせ眺められるのはロンドン下町のかわりばえもしない光景だというのに。  エマのいたって几帳面で真剣な横顔に、ケリー・ストウナーは少しばかり皮肉っぽい笑顔を浮かべる。  楽しそうねぇ。  エマは家事のすべてを心から愉《たの》しんでいるように見える。まるで自分の好きなように飾りつけできる家を生まれてはじめて手にいれたばかりで張り切っている、幸福な新妻《にいづま》のように。  することは丁寧だし、腕も確かだ。紅茶だってこんなに美味しい。スコーンもきれいで、ちゃんと「狼の|口《※》[#狼の口/イギリスの(おもに)ティータイムに出される菓子、スコーンの、生地がうまく焼けたときにできるという、膨張部分の割れ目の俗称。]」ができている。この子ったら、ほんと、なんでも任せておいて大丈夫なのよね。  ほんとうに、ありがたい、めっけもんの女中《メイド》だわ。  神さまは、孤独な人生の最後に、彼女という贈り物をくれたのだ。教育[#「教育」に傍点]というものの信者へのほうびに。  こわばる膝に掛け布を引き寄せ、たいらにした寝台の上に朝食の盆をのせると、ケリーはカップをもう一度とりあげ、熱い紅茶から漂う新鮮なミルクの香りと、砂糖の甘味をじっくりとあじわった。  エマはその間にも立ち止まることなく働きつづけている。  何ヶ所かの燭台から蝋燭の燃え残りを集めてまわり、通りすがりに机の上の紙のバラついているのを目にとめて、立ち止まり、トントンと端をあわせて置き直す。椅子の背のレースのカバーがほんのすこしまがっているのにも気付いて整える。そうしていながら、女主人の朝食に問題がないか何か不足がないかをちらちら目で確認している。  とりあえず、主人がふとんから起き出すまではあとはこの部屋ではできることはそうたくさんはない。  さりげなくかがんで寝台の下の室内便器《ポット》をひっぱりだし、女主人の目に触れぬよう自分のからだに隠して始末をした。水差しと瓶にそれぞれ新鮮な水を汲んで持って上がってくると、朝食盆がもうワゴンに戻されていた。せっかくのスコーンは半分しかなくなっていない。クロテッドクリー|ム《※》[#クロテッドクリーム/イギリスの伝統的なクリーム。牛乳を煮詰めたものを一晩おいて作られる。]にはすこししゃくった痕跡がついているが、ジャムにも、ケイジャリ|ー《※》[#ケイジャリー/タラなどの白身魚とゆで卵を入れたリゾット風の料理。]にも、まったく手をつけた様子はない。女主人は今朝もあまり食欲がないようだ。 「お替わりお持ちしましょうか?」エマが言うと、  ケリー・ストウナーはぼうっとどこでもないどこかを見つめていたが、ふと瞬きをして、物思いから我を呼び戻した。 「もういいわ」  からになっていたカップを差し出す。エマはそれも盆で受け取る。 「それより、今日あたり買い物に出掛ける用事はなくて? 刺繍糸《ししゅういと》が足りなくなりそうなの。午後でいいから買ってきてくれないかしら。欲しい色番号を、あとで書き出しておくから」 「はい」 「ついでに他にも頼みたい買い物がないかどうか、いろいろ思い出しておくようにするわ。あんたもなにか不足がなかったか考えて。……今日の予定は?」 「ハーブガーデンの土を、天地起こししたいと思っているのですが」エマは窓の外をちらっとながめた。「あまりお天気がよくないようです……。エンドウの育ち具合だけみて、お洗濯物にアイロンかけをしてしまいます」 「ご苦労さんね。ラベンダーは足りていて?」 「だいじょうぶです。半ダース以上も、きちんとくるんで大事にしまってあります」  嬉しそうにエマは言った。  生のラベンダーを奇数本、開花直前の初夏のうちに刈り取り、花穂のすぐ下の部分で束ね、穂を包むかたちに折り返した茎《くき》を縦糸に、花蔓《はなつる》やリボンを横糸にして市松模様になるように編み込んだものを、ラベンダー・スティックあるいはバンドルという。いわば簡便ポプリである。ほのかなよい香りが長く続くので、下着やリネン類、紙類のひき出しなどにいれておく。  また、ラベンダーは、精油《エッセンス》を湯冷ましにおとしてリネン水ともする。布製品にアイロンをかける時にこの水を使うと、やはり、同じ香りを漂わせることができる。ストウナー家ぜんたいが、いつも同じひとつの芳香《ノート》にそっと包まれているのは、このおかげ、大量のラベンダーが収穫されたからこそ、だった。  エマは、どうやってか時間をみつけて、長年ほったらかしだったこの家の裏庭をセッセと開墾《かいこん》し、草花を育てはじめたのだった。ケリーは詳しくは知らないが路上で花売りをしている誰からかの受け売りもすこしあったようだ。  ジメジメ汚いガラクタ置き場だった庭が、ある日ふと気づいたらこぢんまりと片づけられ、一部の土がほっくりかえされて耕《たがや》され、畑のようになっていたのである。あれはなんだと訊《たず》ねると、花壇にしてみたい、ほんとうにうまくいくかどうかやってみないとわからないからとりあえず少し試してみてからご相談しご報告しようと思っていた、と顔を赤らめた。勝手なことをしてすみません。  タネや苗で分けてもらってきた作物のうち、いくつかの品種はダメにしてしまったが、いくつかは無事に定着したらしい。土地や日照条件にあうのか、たいそう丈夫に育っているものといったら、まずは精力旺盛な各種ラベンダー、そしてカモマイル、ポリジにフェンネル、チャイブ、ナスタチウム。ラディシュやトマト、ルッコラにズッキーニなどの野菜類も徐々に植えつけ面積をふやしつつある。  野菜の新鮮な収穫物は毎日の食卓をにぎわせてくれるし、栽培物が季節ごとに、若葉をしげらせ、花をつけ、実をならせてみせるだけでも、目に楽しいものだ。また家じゅうからどうしても出てしまうゴミなどもなるべく堆肥《たいひ》にしてうまいこと土を肥やすのに使えば一石二鳥というもの。  庭いじりなどというのは郊外の富裕層の優雅な趣味であって、雑役女中《オールワークス》が必須作業の合間に取り組むなどろくなことにならないのではないかとケリーははじめ案じていた。が、器用なエマは巧みにこなしてみせた。もともと、家一軒まるごとの朝から晩までの家事全般をたったひとりで担当しているとはいえ、つまりは老女ひとりの生活の垢《あか》の面倒をみるだけである。汚す、散らかす、必要を補うといっても、大家族や子だくさんな家庭に比べれば高《たか》が知れている。一度にしようと思えば重労働になることがらも、毎日少しずつ積み重ねていけば、余裕もできる。  昨年の初夏など、ケリーも新しくできた秘密の花園をぶらぶら散策したり、時には、椅子をもちだしてそこでほのかに香る風に吹かれながらのんびり読書にふけったりなどすることを愉しんだのだった。 「そうだわ。そろそろ春|蒔《ま》き用のタネもいろいろ売り出している頃なんじゃないかね。もし、なにか欲しいもんがあるなら、買っておいで」 「よろしいですか」エマは目を輝かせる。「あの……タイムとローズマリーは、あとパセリは、あったら便利だなと思っていたんです。お料理やお茶にいろいろ使えます。あと、カラントやベリー類なんかも……」 「ああ、いいよ、なんでもやってこ覧。おまえに任せる」  ケリーは手を振って、枕からからだを起こした。 「さぁて、そろそろ、起きるとしようかね」  女主人の着替えと髪の手入れを手伝うと、エマはベッドからシーツや毛布を取り外し、裏庭でよくあおって埃を払った。そのまま少し大気に晒《さら》して干しておく。老婦人の新陳代謝《しんちんたいしゃ》など知れているから毎日いちいち洗濯まではしないが、寝汗の湿気は飛ばしておきたいのだ。この曇天《どんてん》では素早い効果は期待できないが、風が抜ければカラッと乾く。  朝食に使った食器を洗い、残り物を自分でも軽くつまみ、各階の部屋と階段をザッと掃除する。そろそろ干し上がったシーツや毛布をとりこんで上り、女主人の寝室のベッドをきちんと丁寧にメイクした。居間でなにかの手紙を書いているらしい女主人に用がないか訊ね、特にないといわれたので、好きなラベンダーの香りに包まれながらややのんびりとうっとりとアイロンをかけていると、もうあっという間に昼時だ。  今日はケリーはどこからも昼食の招待をうけておらず、誰も招いてもいなかったので、蒸し煮器《ダイジェスター》の残り物で簡素なスープをつくり、とりおきのパンとチーズを出しただけで済んでしまった。老女はそれらにすらもほとんど手をつけない。パンもなにか物思いをしながら指先でさかんに千切るばかりでさっぱり口に持っていかない。ほんとうに最近はすっかり食が細くなってしまった。  散らかりかたが少なければ、片づけも早い。買い物メモをもらい、読み上げて復唱し、勘違いがないかどうかを確認し、エマは出掛けることにした。  エプロンをはずし、服にブラシをあてる。襟元《えりもと》にショールを巻き、上着を着込む。もちろん帽子をかぶらないわけにいかない。 「きょうは午後のお茶はいらないわ。まだおなかいっぱいで、とてもじゃないけど、入りそうにないもの」鏡で外出支度におかしなところがないかどうかを点検しているエマを、居間の安楽椅子にかけて本を膝においたまま見送りながら、ケリーは言った。「夕飯までに戻ってきてくれればいいから、たまには、どっか、ゆっくり歩いてきたら?」 「そうします。ありがとうございます」  ウィリアムはぼんやり頬杖《ほおづえ》をついて、行き交うひとびとを眺めていた。  中途半端な時間帯で、カーナビー通りの地味なパブのテラス席はがらんと空いている。座ってのんびりコーヒーなど喫している人間こそほとんどいないが、小さな広場《スクウェア》に面した角には、ひっきりなしにひとや馬車が通った。華奢《きゃしゃ》な陽傘をさした婦人、そぞろあるきの初老の男たち、どこかの小僧か使い走りなのか半ズボンにズッグ袋のかばんをななめがけにし赤い頬で急ぎ足の少年。仔犬とこどもたちが走り抜ける。  みなそれぞれに忙しそうだ。  対してこちらは……  ヒマだなぁ。  うららかな陽差しに目の皮が弛《たる》む。あくびも漏れる。  なまじすることもなく家にいれば父親に呼びつけられ毎度なかみの同じやたら話の長いご卓説を聞かされるばかりなので、健康のための散歩を口実に逃げ出してきたものの、実際、これといってすることがない。何ら目的もなくぶらぶら歩きをするのにも限度がある。ちょっと喉が渇いたので座ってみたが、コーヒーも二杯も三杯もやたらに飲めば腹が水っぽくなるばかりだ。  チョッキのポケットから金むくの懐中時計を取り出してしげしげ眺めてみるのだが、さっきそうした時からまだ五分とすすんでいなかった。もしや止まっているんじゃないかと耳にあててみると、コチコチ言うから壊れてはいないらしい。  夕刻まではまだまだずいぶんと間がある。つぶさなければならない時間が膨大《ぼうだい》にある。  ヘタに戻れば父親につかまって小言の嵐だ。  まだ家にはかえりたくない。  まいったなぁ。困ったなぁ。いったい何をしたものか。  とりあえず、高々と組んだ足の右と左をいれかえて、上体をウウンと伸びなおしてみたが、そんなことで浪費できる時間はせいぜい十数秒である。  ぽっかり空虚《くうきょ》になった脳味噌に、ひとつの顔が浮かぶ。  榛色《はしばみ》のひとみを厚いガラスで隠した清楚《せいそ》な娘……エマ……の顔が。  時間っていうのはほんとうに不思議なものだよなあ、とウィリアムは思う。彼女といた時は、何時間も、アッという間にすぎてしまった。まるで魔法で消しでもしたかのように。  忘れた手袋をもって追いかけてきてくれた日、お礼に家まで送っていきましょうと紳士ぶりながらなぜかハイドパークに踏み込んで、どう考えても必要ではなかった遠回りをしながらぐるぐる彼女を引きずり回してしまった。あとから考えると、いつもはグウタラで軟弱ですぐそこにいくのでも馬車を拾いたがる自分が、なんであんなにどこまでもどこまでも疲れもせず歩きたがったのか歩き続けることができたのか、まったく謎《なぞ》である。そして、いくら黙ってついてきてくれるからといって、その日が初対面のかよわい女性を平気でどこまでも連れ回しあんな長い距離を歩かせるなんて、我ながら完全にどうかしている、常軌を逸している。ほんとうにバカで無慈悲で考えなしだった。しかもくだらないどうでもいい、あとから考えればたぶん彼女にはぜんぜん興味がないだろうことがらをのべつアホみたいに喋りまくって、別れた直後には運動過剰で顎《あご》がガクガクしたほどだ。  どんなお調子者のバカだと思われたことか。  名残惜《なごりお》しさのあまりほんの十分かそこらだけ引き止めたつもりが、塒《ねぐら》に帰るカラスの声にハッと気がつくとどうやら一時間をも越える間、だらだらと意味もなく引き回してしまっていて、心底仰天《しんそこぎょうてん》したのだった。  彼女はさぞかし困ったに違いない。なんて気のきかない、迷惑な男だろうと思ったに違いない。  ちょっとのつもりがこんなに遅くなって、あのおっかないミセス・ストウナーにさぞかしひどく叱られるんではないかと思うと、気の毒で、申し訳なくて、おのが軽薄さ愚《おろ》かしさを呪いたい気持ちだった。  自分のせいでこんなことになってしまってほんとうにすまないと、彼女の咎《とが》ではないのだから叱られるとしたら申し訳ないと、こうなったらなんとしても家まで送っていって僕が先生に直接あって事情を説明し、すべてこちらのせいなんですとよく謝るからと提案したが、やんわりとしかし潔癖《けっぺき》に固辞されたのは、彼女としてはもう僕などとは一刻たりともいっしょに居たくなかったからなのだろうか。送ると言ってその実ずるずるさっき引き延ばしたのと同様にまたしても泥沼にはまってなんのことはないますます帰りが遅れてしまうに違いないと判断したのか。  だが……  ああ、ああ、なんて楽しかっただろう!  そこに彼女がいてくれるだけで、世界は輝いた。そばを、一緒に、歩いていてくれるだけで、幸福でたまらなかった。  どこまでも、永遠に歩いていたかった。そうやって、彼女の隣を歩きながら、彼女に話しかけて、ちょっと笑ったりうなずいたりビックリしたように目を見張ったりしてくれる姿を眺めていたかった。もっともっと長いことそうしていたかった。  パッと振り向いてかすかに微笑んで、また恥ずかしそうに顔をそらす。ひなたでみる時の彼女の明るいひとみ、ひかげでみる時の神秘的に黒いひとみ。影を作り出す長い睫毛《まつげ》、見る角度ごとに描くカーブをかえる頬骨の線、顎のかたち。きちんと編みこんだ髷《まげ》からふわふわ飛び出した何本かの髪の毛、はみだした彼女の耳の縁が寒風のせいか歩いたせいかすこし赤らんでいるさま、そこにかかった眼鏡のつる、エプロンの肩紐の端っこのほんのかすかなよじれ。上着ごしにのぞける肩甲骨のかたち。  なにを見ても、どこに注目してみても、そのたびに小さな愛《いと》しい発見があり、新たな感嘆が胸を疼《うず》かせた。  いつまでも見つめていたかったし、いくら眺めていても飽きないに違いなかった。  公園の散歩道で騎馬の誰かがむこうからきて擦《す》れ違《ちが》ったりする時、時おりふたりの距離がふいに短くなり、かすかに肩がぶつかったり、彼女の肘がこちらの胸をかすめたりした。すると、ほのかにかすかにナチュラルな、なごやかな良い香りがした。  あれはラベンダー。  もし自分がもっと如才《じょさい》ないやつだったり、恥知らずの遊び人だったりしたら、あそこで、「おっとっと」などと言って、ちょっとよろけたふりをして、彼女をこの腕に抱きしめてしまうことだってできたかもしれない。そうして鼻腔いっぱいに、彼女そのものであるかのようなそのあまく優しい香りを吸い込んで、幸福な気持ちになれたんだろうに。すくなくとも、さりげなく手をとって、自分の肘のところに掴《つか》まらせて、ねぇ、こうして歩きましょうよ、と提案するぐらいの厚顔無恥だったらよかったのに。  だが、そんなことをするかもしれない自分を空想してみただけで、脳はカーッと沸騰《ふっとう》し、心臓は破れんばかりに高鳴り、呼吸が首のあたりで詰まって不自由になった。  だから、実際にはウィリアムはなにもできなかったし、ほとんど彼女に触れることもできなかった。たんに幸運な偶然でかすかに触れる肩口や肘以外では。受動的にたまさかどこかがかすかに触れるだけでせいいっぱいで、積極的に手をだすことなど考えもおよばなかった。  それは紳士のすることではない。  おかげで、肘とか上着をまとったままの肩などといういたって鈍感なはずのものが、意志と注意をそこに集めるだけで実はどんなに繊細《せんさい》になりうるかを、イヤというほど思い知ったのであるが。  ああ。  そのひとは欲望ずくに抱きしめるにはあまりにも清純すぎる。  欲さずにいようとするにはあまりにも魅力的すぎる。  その姿を思い描こうとするだけで胸がこんなに痛くなることがあろうとは。  逢《あ》いたいな。  また、エマさんに。  思わずニヤけそうになった時、空想の想い人の横顔に、こわい家庭教師の顔がズイと割り込んだ。ウィリアムは椅子の背の上でずりずりと沈む。  ……そうなんだよな。逢いたければ行けばいい。訪ねていけばたぶん逢える。でも、そこには漏れなくストウナー先生がついてくるんだからな。  ──お返事は、ウィリアム?  先生の声は記憶の中でもことさらに冷たく響く。特にコレといって思い当たる悪いことをなにもしていなくてすら、背筋にピリリと感電する。怒鳴られているわけでもないのに、おもわず首をすくめるか、逆に、気をつけをしないではいられなくなる。  先生を懐かしがって訪問するふりをしながら実はエマさんに逢いたいから出掛けたりしたならば、もちろん、一瞬で見抜かれるに違いない。  いや見抜かれたからといってそんなにマズいわけでもないが……別に罪悪だとか道徳的ではないということはないと思うが、でも、なんでこう恥ずかしい気がするんだろう?  ああ。  偶然バッタリ逢えるならいいのに。  それも先生のいない外で。  そっと溜め息をつきつつ、ウィリアムは思った。我ながら考えがあまい、世の中そんなに都合よくできてはいないだろう、と。  だから……、  なにげなく眺めやった街角の戸口に、ほっそりとした影がひとつ立っているのを、おのが目がやけに真剣に突然ギラギラと意識して観察していることに気づいても、その理由を悟るには一瞬の間があった。  視神経のほうが先に動物的に敏感に反応したのであって、脳味噌は遅れてついていったのである。  エマさんだ。  遠くからでもすぐにわかる。  何人似たような婦人がいても間違いなくわかる。  不思議な力で呼ばれて牽《ひ》かれて、否応《いやおう》なしに目にはいる。  錯覚か、望むあまりの幻《まぼろし》かとおのが理性を疑ったのは一瞬のこと。たしかにほんものだ。間違いようはなかった。帽子と外套《がいとう》の上品な立ち姿もさることながら、いま、雲間からこぼれてきた冬の陽を反射して一瞬、きら、とまるで信号でもおくってよこすかのように光ったのは、彼女のガラスの眼鏡である。  食料品店のものらしきゴツゴツした紙包みをかかえて、サッと歩きだすエマに、ウィリアムはおもわず立ち上がり伸び上がり、二三歩踏み出した。  そこへ、 「旦那、お勘定《かんじょう》」  背後から鋭く声がかかった。 「すまん」目はエマから離さない、見失ってはたいへんだ。なかみも確かめずに手をつっこんでポケットをさぐり、手にさわっただけを掴んでザラリとそこらのテーブルに置く。「釣りはいい」 「へ? えっ、おい、ちょっとあんた、いいったっていくらなんでも!」  パブの主人の声はもうぜんぜん耳に入らなかった。  ウィリアムはもう走り出している。道のこちらがわを一心に駆けに駆けた。帽子をおさえ、上着の裾《すそ》がぱたぱたなびくのを肘を締めてごまかしながら。横目で対岸のエマをなにがなんでも見失うもんかとほとんど半歩ごとに確かめながら。  追い越したり擦れ違ったりする誰かにぶつかりそうになると、燕《つばめ》のように身をひるがえし、|パードンミー《すみません》と囁《ささや》き、浮かれ気分のままにちょっと帽子を掲げさえした。そんな若々しくヤンチャに活動的な挙動は数年来おぼえがなかった、学校の体操の時間にも騒がしいやつらの陰に隠れてどうか本気でがんばらなくてすみますようにと祈っていたウィリアムなのに。  小さな交差点ひとつ余分に遠回りをしておいて、立ち止まり、息を、そして服装を整えた。襟をなおし、ネクタイの曲がりを戻し、チョッキの前さがりをひっぱって、背筋を伸ばした。  よし。準備完了。  エマはまっすぐ前にいる。  こちらを向いて、ゆっくり歩いて来る。  ウィリアムの心臓と脳味噌はフツフツと煮えたぎる血でこったがえしていたが、表情はなにげなく落ち着いたそれにしてみせたはずだ。少し頬が上気しているぐらいで。  やあ、と何気なく右手をあげて微笑んだ。人好きのする紳士らしい笑顔のつもりだ。  二秒後、当惑に、その笑みが凍った。  エマはそのまま歩いてくる。まったくなんら変化がない。ただ一直線に、ずんずん近づいてくる。その目はまっすぐこちらを向いているように見えるのに、視線がいっかな交わらない。  さらに二秒後。  ウィリアムの膝と唇《くちびる》がふるえだした。  なんてこった。彼女は僕をみようとしない。無視《カット》する気だ。こんな衆人環視の中で。そんな恥をかかされるようななにをこの僕がしたと?  ああそうか。そんなに怒っていたんだ。不愉快だったんだ。あんなにダラダラ連れまわしたりしたこと。はやく帰してあげなかったこと。彼女はもう僕になど金輪際《こんりんざい》逢いたくないのだ。へたに愛想よくなんかするとあのバカがまた遠慮なく迷惑をかけてくる、だから、知らんぷりをすることにしたんだ。  ああ、なんてこった……もう取り返しがつかないのか!  胃袋がキュッと収縮し、背筋が冷たくなった。  絶望とは、そして、穴があったらはいりたいとはこういう気分のことなのだ、とウィリアムが実感し、どこか手近なところにもしやスコップはないか、ないならこの手でアスファルトを掘り返してでも道路のどまんなかにドでかい穴をあけてやりたい、狂おしくそう思った刹那《せつな》、エマが突然|瞬《またた》きをし、あっ、と声にならない声をあげて立ち止まった。 「……ジョーンズさん」  安堵《あんど》は氷河の溶解にも似て、すこしでも気をゆるしたなら全身脱力のそのあまり膝から道に崩れ落ちてしまいそうだった。あるいは全身がゼリーのようになってクタクタとその場にしみこんでしまいそうだった。  きちんと帽子をとってまっとうな挨拶ができたのは、紳士たるものどんな危急存亡のおりにも、たとえ瀕死《ひんし》の重傷を負った時にでも、必ずそうするべきだそうしなければならないと、生まれた時からこんにちまで徹底的に叩き込まれてきた訓練の成果に他ならない。  反射神経で対応できる範囲を踏み越えてしまうと、もう、矜持《きょうじ》を保ってなどいられなかった。 「ああ、エマさん! もう、ショックで心臓が止まるかと思いました」  これでは愚痴《ぐち》だ、口説きだ、こんな路上で、まるでいきなり文句をいっているようなもんだし、彼女を責めてるみたいで困らせるだけだと、理性ではじゅうじゅうわかりながら、昂《たかぶ》りのあまり言わずにいられないのである。 「全然つれないんだもの。そこらの棒切れか石ころでもみるような目つきでこっちを見てるばかりで」 「すみません」エマは頬をかすかに赤らめて、ありもしないほつれ毛を耳にかけなおした。「気づきませんでした」 「手も振ったじゃないですか」 「見えませんでした」 「眼鏡かけてるのに」  エマはちょっと笑ってかぶりを振った。「遠くのほうは、見えないんです」 「度が合わなくなってるんですか? じゃあ、もっと合うのを作ればいい」  この頃までにはどちらからともなく歩きだしている。エマがもともと進もうとしていた方角に。延々と道端に立ち止まって話し込んでいるのもあまり見栄えのよいものではないからだ。  ウィリアムはいやがる両手を無理にズボンのポケットにつっこんだ。そうしておかないと、このバカどもは、彼女の肩やら腰やらを抱き寄せたくなってしまうだろう。昼日中っからロンドンの真っ只中でそれはまずい。とてもまずい。 「だって、よく見えないと不便でしょう、へんなもの踏んじゃったりするとコトですよ。そら、ここらにだって、馬車馬のあまりありがたくない落とし物が平気で飛び散っているんだし」  エマはしばらく無言で進んでいたが、やがて小さな声で、あいにく眼鏡というのはたいへん高価なものですから、とつぶやくように言った。  ウィリアムは立ち止まった。  電柱にであった犬のようにピタリと。  そうか、それはラッキー! そういう気持ちが、天啓《てんけい》のように閃《ひらめ》いたのだ。 「じゃあ、買わせてください。僕がプレゼントします」 「え……」 「行きましょう! いますぐ、新しい眼鏡を買いに!」  できればエマの腕をつかんでひっぱりたかった。そのまま駆けだして連れてゆきたかった。  が。 「そんな」エマは半笑いしながら遠慮した。「滅相《めっそう》もありません」 「なぜですか。いいじゃないですか、眼鏡ぐらい!」 「何かを買っていただくような謂《いわ》れはありませんし」 「ひどいなあ。そんなつれないこと言わないでくださいよ! だって、こないだちゃんと、さんざん迷惑かけたじゃないですか」  自分でもなにをいっているんだかわからない。 「いっぱい歩かせて、帰るのを遅くさせてしまったりして。ほんとうにすまなかった、申し訳なかったと思ってるんです……だからそのお詫《わ》びのしるしに……いやそういうのがもしあなたの魂の重荷になるなら、なんなら先生に長年お世話になったお礼なんだと考えていただければ……あっ、それだ! そうです! だって、あなたは先生のありとあらゆることを面倒みてくださっているんですから。僕にしたら恩人の恩人でしょう。あなたがちゃんと先生の面倒をみれるように、僕には援助をする義務がある。当然ですとも。そうじゃないですか! そんなわけで、さあ、行きましょう、そうしましょう、それがいい!」 「でも……」 「お願いです!」ウィリアムは言《い》い募《つの》った。「頼むから買わせてやってください! もらってやってください! だって……それがちゃんとしてなきゃ、あなたが危ない」  言ってから、それが自分のホンネだったことに気がついた。  もし、よく見えないせいで彼女が、なにかの穴に気づかずに落ちてしまったり、暴走してくる馬車に弾き飛ばされでもしてしまったなら……僕は僕を許すことができない! 「よく見えないと、なにかと……お仕事にだって、さしつかえるじゃないですか!」 「……大丈夫です。いちおうの用は足りてますから」 「……ああ、『私は愚かにも眩《つぶや》く』」  ウィリアムが思わずいつかどこかでたまさか目にして覚えていた詩を暗唱しはじめてしまったのは、自分ごときの生み出す日常の貧弱なことばではこの熱い気持ちを説明するのにも彼女を説得するのにも役者が足りないのではないかと、とっさに判断したからである。  ここはなにか、がんばるものは正しく報いられるべきだということがらを、より確固とした権威あることばで言い表さねばならない。そう感じた。けっして偉そうに恰好をつけたかったのだとか、高学歴をひけらかしたかったとか、そういうことではなかったのだが……たまたま頭にうかび口からこぼれてしまった詩の片鱗《へんりん》は、そうして耳にしてみると何やらやたらに徽臭《かびくさ》く高尚《こうしょう》で、大げさで、我ながらイヤミったらしく、傲慢《ごうまん》そうに響いた。だが、はじめたからにはあまりにハンパな途中でやめるわけにもいかない。  しかたがないのでウィリアムは言い終えた。 「『──光を奪われた者からでさえも、主は終日の激しき労働を求《もと》め給《たも》うのであろうか、と』」 「『すると、�忍耐�は忽《たちま》ち私の泣事を遮《さえぎ》って言う』」  驚いたことに、エマは続けたのだった。……正確に、その詩の……二世紀も前に生きて死んだ大詩人ジョン・ミルトンの『わが失明について想う』の中から、いまウィリアムが引用した部分につながる正確なフレーズをすぐに再現してみせたのだった。 「『──主は与えた賜物《たまもの》の返却も人間の業《わざ》も求められはしない』」 「『やさしき軛《くびき》をよく負《お》う者こそ主によく仕《つか》える者なのだ|』《※》[#「イギリス名詩選」平井正穂編 岩波文庫より一部引用。]……」  ふたり、ゆっくりと声をそろえてたっぷりと抑揚《よくよう》をつけ、歌うように詩の文句を言い終わると、甘い沈黙が落ちた。  どちらからともなく見合わせる目と目の間に、何か、これまでにはなかったものが流れるのをウィリアムは感じた。 「だっ……だから! ですから!」  ウィリアムはあたりを見回し、目にとまるものを次々に指さした。 「ご覧なさい、カケスは梢《こずえ》から梢へ飛びうつっているし、猫は塀の上を歩いてる、こどもだって転んでるじゃないですか! こんな日にはみんな眼鏡を買うものと太古の昔から決まっているんです。是非ともあなたも眼鏡を買わなくては。さぁ、買いにいきましょう!」  エマはあっけにとられたように口をあけ、それから、あわてて片手で口をおさえた。どうやら笑い出すのを堪《こら》えたと思《おぼ》しい。  いいんだ。桂冠詩人がダメなら、ウケてもらえるコメディアンだ。 「ありがとうございます」  彼女は口がきけるようになると、言った。 「とても嬉しい。でも、すこし考えさせてください」 「もちろん」ウィリアムはうなずく。「どうかよく考えてください。良いお返事を待っています」  122番地の長屋《タウンハウス》に帰り着くと、エマは外出着を脱ぎショールを外し、エプロンをかけなおし、ヘッドドレスをピンでとめつけた。  買ってきたものをあちこちにしまい、刺繍糸の包みを片手に戸口から覗《のぞ》いてみると、居間の暖炉前で椅子にかけて読書をしている女主人の姿がみえたので、ただいまもどりました、と挨拶の声をかけ、買い物を届けにいった。 「刺繍糸のことなんですけど」 「ええ、はい」 「黄色の15番があいにくきれていました。次の仕入れがはいるのに、二週間ぐらいはかかるそうです。13番か17番ならありました。お要りようなら、また参ります」 「そう。ありがとう」  ケリー・ストウナーは糸束をザッと確かめると、包みに戻して、もう一度彼女にわたした。 「裁縫箱《さいほうばこ》のとこに置いておいてちょうだい」 「はい」  エマは会釈して後ずさり、窓辺の小物卓に包みを持っていった。裁縫箱の周辺には、枠にはまった縫いかけの刺繍《ニードルポイント》、多色の待ち針を並べた針刺し、何種類かの銀の|指抜き《シンブル》などが、いかにも愉しいやりかけの趣味の作業を想わせるあたたかみのある散らかりかたで放置されている。新しい刺繍糸をどこにどうしたものか、ちょっと迷って、裁縫箱の蓋の上に包みごと置いた。  戻って来がてら、クッションを膨らませなおし、ラグの端のフリンジのみだれをそっとしゃがんで整え、ついでにさりげなく暖炉のほうに近づく。  本のページに目をおとしていたケリーは、エマが動かなくなっていることにふと気づいた。いつもなにかと小まめに手を働かせているのに。  エマは少しからだをひねって、暖炉の上をぼうっと眺めているのだった。  そこには誰かの旅行みやげなどのいくつかの小物やえはがき、家族の肖像をおさめた写真たてなどが並んでいる。  エマはその、雑然とした小物の山を眺めながら、途方にくれたような横顔を見せているのだった。まるで、さめかけの不思議な夢のなかで迷子になってしまったこどものような、奇妙に頼りない、不安そうな、だが同時にどこかワクワクと幸福そうな表情を。 「どうかして?」  女主人が訊ねるとエマはビクッと飛び上がり、驚いた表情のまま振り向いた。自分が放心して、こころここにあらずになっていたことに、まるで気づいていなかったらしい。 「すみません、失礼しました。なんでもありません」  それで彼女が、だいたいどのへんを見つめていたのかがみえた。  写真たてのあたりだ。幼い日のウィリアム・ジョーンズの肖像がいちばん前にある。  ケリー・ストウナーは黙ってエマを見つめた。  あわてて目を逸らすエマのなにくわぬふうを装《よそお》ったさまが、かえって多くを代弁しているのだった。  おやおや。  ケリーは額の上のほうまで薄い灰色の眉《まゆ》を片方持ち上げた。  どういうこと?まさか、偶然、町で、坊っちゃまにあったとでも?  お茶にでも誘われたのかしら。  だとしたら、ことわったのかしら。うけたのかしら。短い時間ならお茶ぐらい飲んでくるひまはあったわね。  そういえば、なんだかエマはきょうは、あまりわたしの顔を見ない。まるでなにか恥ずかしいことでもして来たかのように、わたしを避けている。  主《エホバ》の視線を避けるように。 「そういえば」ケリーはゆっくりと、感情をこめずに言った。「ハーブはなにを選んできたの?」 「あっ」  エマはこんどこそみるみる真っ赤になった。 「すみません、忘れました。あの、他の用事が思いのほか長引いてしまって……いけない、コンロにお湯をかけているんです。失礼します」  ドタバタとキッチン方面に逃げていく足音に、ケリーはキョトンとし、それから、プッと吹き出し、くすくすと笑い声を洩《も》らした。 「……まぁまぁ。重症みたいねぇ」  こうもきっぱりと眼差《まなざ》しを避けられたのは久しぶりだった。  ジョーンズ家住み込みの家庭教師をしていた頃には、よくウィリアムやグレイスに露骨にそうされることがあった。そうすることでかえって、果たしていったい彼らにはどんな疚《やま》しいことがあるのだろうと見当がついてしまうものだというのに、こどもたちはなにか普段とちがうことがあると、ともすると畏《おそ》れて目を伏せてしまうのだった。  小さなわざとじゃない失敗や怠慢《たいまん》を強く恥じて。あるいは、身にあまるほど喜ばしい嬉しいことがあった時、静かに隠しておけない自分をどうしていいかわからずに。  その夜、就寝の刻限、エマは小さなロウソクを手に自分の部屋までの長い階段をゆっくりと昇っていった。  女主人はもちろん、周囲の家々も、もうみな寝静まっている。ひっそりと闇だけがあたりを包んでいる。ひとりぼっちの寂しさと特権がふたつながら意識される刻限。  屋根裏の居室の洗面台兼用の小卓にロウソクを置き、そこにある鏡を眺めながら、スツールにかけ、髪をほどいた。  きつく結《ゆ》ってほつれないようにきちんと編み上げてあった髪には緩やかな癖がついている。手指で編み目をほぐし、襟足から梳《す》き、ザッともつれをなくしておいて、ブラシをあてる。ゆたかな髪がツヤツヤと広がると、緩む頭皮に血が巡って、疲れがとれる。  仄暗い鏡にうつる自分の顔を、エマは見るともなく眺めている。  一回、二回、機械のように繰り返し長い髪にブラシをかけていく動作が、自分で自分をゆっくりと呪文にかけるかのよう。想いは記憶を呼び覚まし、昼間の光景を再現する。  ──カケスは梢から梢へ飛びうつっているし、猫は塀の上を歩いてる、こどもだって転んでるじゃないですか!  ミスター・ウィリアム・ジョーンズの芝居がかって大まじめな顔。  ──こんな日にはみんな眼鏡を買うものと太古の昔から決まっているんです。  文句があるなら言ってみろ、とばかりに断言する顔。  エマの頬はいつしか微笑みというには崩れすぎの笑みのかたちに緩みっぱなしになる。  おかしなひと。  わたしがご自分を無視したと思い込んで、あんなに怒った。……ううん、あれは怒ったんじゃない。あのひとは傷ついたのだ。そんな顔をしていた。  誤解だったわけだけれど。  たかが女中《メイド》ごときに知らんぷりをされたと勘違いをして、自尊心が傷つけられてしまったのだろうか。最初はそう思った。  でも……そうじゃないかもしれない。  あのひとは。  ──『やさしき軛《くびき》をよく負う者』……who best bear His mild yoke……  あのひとは、あの詩を覚えていた。いつかどこかで見つけて、こころにとどめておいたのだ。わたしと同様に。  主は、さだめに無理に逆らおうとしないものを好む、与えられた運命をありがたく受け取り苦役《くえき》にもすなおに甘んじるものを好かれる……、だから、逆らうな、抵抗するな……たぶんそういう意味の詩なのだろうと思っていたけど……だから、すこしぐらい辛いことがあっても黙って耐えようと思うとき、人間はそうしなければならないものなのだと自分に言い聞かせるとき、口ずさむようにしていたけれど……ほんとうのところ、韻律《いんりつ》が美しくて、ことばの流れがすてきで、だから好きだと思ってしまっていただけかもしれない。  たとえば、|やさしい軛《マイルドヨーク》。  やさしい、くびき、って、いったい、なんだろう? なんのことなのだろう。  なんとなく惹かれることば。バクゼンとはわかる気がするけれど、ほんとうのところ、正確にわかっているかどうか、考えてみるとよくわからない。  この詩をはじめて聞いた時から、不思議に気になっていたことば。  軛軌《yoke》──それは服従のしるし。古代ローマ、捕虜《ほりょ》たちが誓いのためにくぐった三本槍のアーチ。支配。権力。束縛《そくばく》。そしてまた同時に、きずな。ひとつの枷《かせ》につながれた二頭の牛。だから、yokefellow,yokemateといったら、運命共同体的な仲間のこと、あるいは、配偶者[#「配偶者」に傍点]のことだ。  ジョーンズさんは、どう思っているんだろう。やさしい軛ってなんでしょう。どういうもののことだと思いますか。もしもまじめに訊ねたら、どう答えてくれるだろう。  あの、とても幸福そうで、生まれつき恵まれているように見えるひとにも、�軛�なんてものがあるんだろうか。  わたしには、ある。  わたしに課せられた軛とは……たとえば、ひとつは……この生まれ。天涯《てんがい》孤独。この世にたったひとりきり。家族と呼べるようなひとがどこにもいないこと。  そしてもうひとつは。  エマは眼鏡をはずして、机に置く。  裸眼になると、世界はたちまち溶暗した。細かなかたちと距離感があいまいになり、光と影と雑多な色がまだらに混じったものになる。  もうひとつは……この、視力。  エマの虚弱な水晶体には、必要じゅうぶんなものはうつらなかった。世界は、その場にじっと留まったまま手を伸ばせば触れることのできる範囲内と「その外」に二分される。近いもの、容易に触れることのできるものは、怖くない、理解できる、弁別できる。だが、その狭い範囲を越えたところにあるすべては豊饒《ほうじょう》すぎる混沌《こんとん》であり、計り知れぬものであり、危険と一義であった。よく見知った自室の内であっても、不可解と拒絶に満ちて、ともするとちっぽけなおのれを飲み込んでしまおうとするものなのだった。  鏡にうつる顔はうすぼんやりとして、頼り無げであった。指で頬に触れる、指で鏡に触れる。頬も鏡も冷たかった。  ひとが自分をどうみているのか、世界をどうみているのか。  充分な視力を持っているひとたちにとって、この世がどういう場所であるのか。  それを生まれてはじめて理解し実感できたのは、十三の春のこと。その日まで長い月日、エマはほとんど目がみえないも同然であった。  おりおり、足を躓《つまず》かせたり、うっかり物を壊したりしてしまうことがあるのを、エマは自分が愚鈍で注意散漫だからだろうと思っていたし、他人からも、そう言われつけていた。他の同じ年頃のもっとすばしっこい子たちのように、いろいろなことが巧みにできないことや、一度いわれて気をつけているつもりでも同じ間違いを何度もしでかしてしまうことを、恥ずかしい、みっともない、惨《みじ》めなことだと自覚していた。  のろまで小狡い生まれつきのサボリ魔、不愉快な間抜けの役立たず。  辛辣《しんらつ》な評価を鵜呑《うの》みにして、実際自分はそういうヤツなんだからしかたないじゃないかと開き直ってしまえば、堕落《だらく》の縁を踏み外す。  辛《かろ》うじて堪《た》えることができたのは、あるかなきかのかすかな記憶のゆえであった。  いい子ね。エマはいい子。わたしのかわいいエマ。  やさしい手があたたかく抱きしめて、頭を撫で、髪を梳《くしけず》ってくれた。  あれは母だろう、若くして流行《はや》り病《やまい》でなくなったという、母。  背中や肩をとんとんゆっくりしたリズムでたたきながら、なにかの歌をうたってくれた。きちんとした歌ではなかったし、いいかげんで繰り返しの多いメロディは正確ではなかったかもしれないが、たぶんもとは賛美歌か子守歌だったのだろう。やさしい手の持ち主は、ただひとつ気にいって覚えたフレーズをエンドレスで繰り返した。  その音律にのせて、飽かずエマの名を囁《ささや》き、よい子だと、かわいいと、おりこうでステキで大好きだと、呪文か祈祷《きとう》のように繰り返し歌った。自分にも、エマにも、世界じゅうにも、言い聞かせるように。  だから……  ほんとうは自分は悪い子でなどあるはずがない、かわいい賢いよい子なのだと、いやむしろ悪い子になってはいけないのだと、エマは思っていたし、ぎりぎりの縁で留まっていたのである。  縁あってケリー・ストウナーの家で働きはじめてからも、ドジは続いた。女主人がとても大事にしているクリスタルの食器がそこらに置いてあるのがわからず、うっかり肘でついて落として割ってしまった日、エマは疎《すく》みあがった。他のものならまだしも、この大切なグラスを! うんとうんと気をつけていたのに。きっとひどく叱られる。ああ、バレなければいい。見つからないうちにはやく片づけてしまおう。だが、女主人は耳聡く、すぐにキッチンにやってきた。 「どうしたの……また割ったの」  馘首《くび》だ。きっと、それも、鞭《むち》でざんざん折檻《せっかん》されたあげくに。鬱然《うつぜん》たる気持ちで膝をつき、破片を拾い集めた。 「なんだか、しょっちゅうねぇ」 「すみません。もういたしません」  垂れた頭《こうべ》を膝にこすりつけるようにしながら、小さな声で早口に謝る。  女主人は疑っているのかもしれない。偶然にしてはあまりにこういうことが多すぎると。ひょっとすると、わたしが恩知らずの癇癪もちで、この家でのせっかくの待遇にたいして恐れ多くもひそかに不満をもち、その感じている不平を罪もない食器どもにぶつけているのじゃないかとすら考えるかもしれない。そんなことしていません。わざとじゃないんです。わたしはそんなこころの真っ黒い悪い子じゃないんです! どうか、どうか、信じてください。 「ああ、気をつけて! そんな細かいのは素手じゃ無理よ」ケリー・ストウナーは手箒《てぼうき》と茶殻を取ってくると、みずから床にしゃがみこんだ。「ほら、こうして湿らせたお茶っぱでくるむようにすると、よく取れるでしょう」 「はい……」 「茶殻がない時は、紙の千切ったのでもいいわ。とにかく、濡らしたもので集めるの。でも、ふきんではダメよ。そのふきんを絞ったらケガしちいゃますからね」  そのぐらいのこともわからないバカだと思っているの? それに……わたしがまたいつかこんなふうにガラスを壊すだろうって諦めている?  エマは心臓がズキリとするのを感じた。  わたし、そんなに、そんなに愚かに見えるんだろうか。 「あぶない!」  女主人がいきなり腕をつかんだので、エマのちいさなからだがハンパに浮いて宙でもがいた。 「手をつく前に、もっと注意してよく見なさい、こんな大きな破片があるじゃない!」  ひどく尖《とが》ったガラスをとりあげると、女主人は溜め息をついた。 「ちょっと角度を変えてみればキラキラ光るでしょうに! おねがいだから、気をつけてちょうだい。ケガなんかしてほしくないんだから。……ねぇ、エマ、あんたはすこしぼんやりさんね。しごとしながら、なにか別の考えごとに没頭でもしている? よく考えてみたいことがあるのなら、一段落してからにしてくれるといいんだけど。いつものお掃除の時もそうなのかしら。階段の隅の埃は、あまり目にはいらないようだし」  エマは黙ってうなだれて、エプロンの端を指にからめた。  自分としては可能なかぎり、気をつけているつもりなんだけれど。できるだけ丁寧にしているつもりなんだけれど。  ああ、こんどから掃除の時には、もっと床や棚に顔をちかづけて、拭くところは隅から隅まで舐《な》めるようによく見なければ……。  うわん、わんわん!  不意に明かり取りの窓の外に犬の吠え声がした。 「あらやだ」透かし見た女主人が笑った。「どこの犬かしら。勝手にはいってきちゃって、支柱《ウィグアム》にひっかかっているよ。ほら」 「…………」 「おや」エマがまったく見当違いの方角を眺めているのに、女主人は鋭く気づいた。 「……ねぇ……エマ、あんた……もしかして……目が悪いの?」  女主人がどこでその眼鏡を調達してきたのか、エマは知らない。  たぶん、誰かお金持ちのこどものおふるだったのだろう。眼鏡屋から買ったばかりの新品ではなく、すこし使った形跡があった。誰かが短期間使ってみて、度があわなかったかフレームが気にいらなかったか、とにかくいらなくなったものなのに違いない。女主人はきっと、誰かにそういうものがないかどうか、捜してもらったのだろう。  ある日、夕刻、エマが自室で不器用に縫い物をしていると、「ちょっといい?」ノックの音がして、女主人がはいってきた。 「こんなもの、見つけてもらったんだけど」  包みから取り出したのは、金属とガラスでできた光学器具。 「これ、あんたにあうかどうかわからないけれど、……ちょっとあててみて」  そしてエマは生まれてはじめて眼鏡というものをかけたのだった。  ツルは緩く、耳のつけねの骨にひんやりと冷たく硬く、鼻の根元にはレンズの重心がきて、奇妙にずっしりとした重みがかかった。が、透明なガラスを通してふと眺めてみた手元は、衝撃をもたらした。  見える。  握っている針の頭に、たて長の穴が見えた。  縫いかけの下着の縁に、いま自分がほどこしたばかりのガタガタの糸目が見えた!  ああ、これなら、針に糸を通すことが簡単にできる。糸目をきれいにそろえることもできる。  なにしろ、ものが、こんなにくっきりはっきり、鮮やかに、わかるのなら。  エマはあわててあちこちを眺めた。小卓の上の小物たちを。自分の手を。エプロンを。そして鏡を。  びっくりしすぎて目蓋が引《ひ》き攣《つ》った。べっとりと平板だったあらゆる物体の表層に、微細なディテールが生じていた。卓には木目があり、手には皺とほくろと煤汚れがあり、エプロンにはこまかな繊維《せんい》があり……鏡の中からは、丸いふたつのガラスをかけたビックリ顔の娘がこちらを睨みかえしているのだった。  エマはほとんど生まれてはじめて、きちんとものを見たのだった。細部の輪郭《りんかく》やものとものの境界線がよくわかった。ピントが合う、とはどういうことなのか、はじめてわかった。  近いものはひとつひとつに視線をむけるごとにまるで力強く飛び出してくるかのように冴《さ》えざえと眼前に迫り、中くらいのものは、それぞれが急にイキイキとして、その存在を主張した。立ち上がって窓からおもてを眺めてみれば、はるか遠くまで……むろん、霧のロンドンのことだから、標準的なそれに比べればまるでチャチな規模なのだっだが……徐々ににじんでゆく景色を見渡すことできた。 「……あ……」  端のほうが茜《あかね》に燃える雲の多い夕空を横切っていく小さな影列に、エマは顔をしかめた。  ゴミのような、ペンでノートにひっかいた記号のようなものは、ずっと眺めていると、ひとつずつがそれぞれ山型になったり谷型になったりした。動いている。  はばたきだ、と、やがて気づいた。 「鳥……」 「カラスの群れよ」 「はい……」  なんて……なんてすごい。  エマは窓枠にしがみついた。  なんてすごい。なんて細かくて、なんて丁寧で。なんて色とりどりで! 世界は、こんなにも、徹底的に作り込まれていたのか。こんなにも煩雑で、ごちゃごちゃで、やたらにたくさんで、美しかったのか。  夕焼けに染まる街のあちこちを、エマは夢中で眺めた。家々の屋根のつらなり、道路の混雑、教会の尖塔《せんとう》の黄金。そして行き交うひとと馬車。  すべてが、エマに、手招きをしてくれているかのようだった。  おいで、おはいり、仲間におなり、と。  自分が(それまでなにも知らずに)どこに住んでいたのか、どういう現実の中に生きていたのか、エマは生まれてはじめて強烈に実感した。  あまりにくっきりと鮮やかだったので、エマは思わず両手をいっぱいに伸ばして空中をまさぐってしまった。つかもうとすれば掴めるような気がしてしまったのだ。なにも、なにひとつ……空気以外は……手に触れない。掴めない。触れることができる範囲にはない、あたりまえだ、しかし、見える!  世界は、自分の短い腕が届く範囲内にしかないものではなかった。手を伸ばせば指で触れて確かめることができる範疇《はんちゅう》にだけあるのではなかった。その周囲に、どこまでもどこまでも、果てしもなく広がっているのだった。 「お……おお……!」  エマは感激と畏れのあまり泣きそうになった。手を口にあて、口から飛び出してくるだろうことばに備えた。だが、ことばにならなかった。感慨はあまりに巨大でことばも思いも越えていたから。  とまどってあたりを見回し、部屋のうしろを振り向いた。得意そうににんまり笑っている女主人の姿が目にはいり……彼女もまたこれまでになくクッキリはっきりと、それゆえに威圧感をあたえるほどにそびえたっている……なによりもまず、感謝のことばを述べるべきだったのだということにいきなり思い当たった。 「奥さま……わたし……あの……!」 「似合うじゃない」  ケリー・ストウナーは言った。 「なかなか理知的に見えてよ」  エマは女主人のほうに動こうとして、踏み足に迷い、グラリとよろめいた。  おっとと、とケリーが手をさしのべる。 「だいじょうぶ?」 「ええと……」  そういえば、なんだか貧血っぽく、めまいがする。頭痛の前兆のようなかすかなめまいだ。網膜に(やたらにはっきりと)見えるものと身体で知っている現実との間に微妙なズレがあって、調子がくるう。脳が動揺している。 「そうそう、いきなりかけっぱなしは良くないんですって。神経が疲れちゃうから」 「はい……」 「少しずつ、慣らすのね。しばらくは変な感じがするかもしれないけど、すこしガマンなさい」 「はい」  エマは女主人の手を握りしめ、泣きそうな気もちをこめて、せいいっぱいに言った。 「ありがとうございます。奥さま。ほんとうに、ほんとうに、どうもありがとうございます!」  いま、自室の仄暗い鏡にうつる眼鏡をかけた己《おの》が姿は、あの頃に比べれば年経《としふ》り、大人びて成長している。もうあの頃のようには無邪気でも無垢でもないし、純粋でもない。これでも年相応には世馴れて世間知も身につけた。  あの日、緩すぎて包帯を巻いてようやくすべり落ちないようにしたフレームは、いまでは顔幅にぴたりとあってゆるぎがない。レンズには無数のこまかな傷がつき、右側の右半分ほどは明らかに曇って視野のさまたげになっている。ほんとうのところ、そろそろ新調したほうがいいのかもしれない。  だがそれはたんなるモノではなかった。  取り替えの利く、ダメになれば捨てて新しいものに置き換えることのできるような種類の、使い捨ての器物ではなかった。  それなしではほとんどまともには生きていけない、かけがえのない相棒。  眼鏡を知らなかった頃の自分がどんなに無様な役立たずだったかを、エマはよく覚えていた。いやおうなく思い知っていた。文字通り、この道具が自分を知らずに陥《おちい》っていた暗闇から救い出してくれたのだ。  だから捨てられない。  とてもじゃないけれど。  それに……それは、ケリー・ストウナーが贈ってくれた宝物だった。奥さまが他ならぬ自分のために散財して贖《あがな》ってくれた品物だった。  だから諦められない。ほんとうにどうにも使えなくなるまでは。完全に壊れてしまって寿命を終えてしまうまでは。使いつづけたいし、たとえ、使い道がなくなってしまったとしても、かたちがなくならないかぎり、そのまま持っていたいと思う。  ふつう標準の視力を手にいれるために余人が必要としない眼鏡という光学道具をどうしても必要としてしまう、ということは、ひとつの軛だ。  眼鏡がないと一人前の働きができない、ということは、わたしの軛だ。  だが……この軛を、わたしはどんなに愛しているだろう?  これがわたしであり、こうでなければわたしはわたしでないのだから。  わたしは軛に繋がれた自分を大切に思っている。  もしいまこの世に眼鏡というものがなかったら、わたしはいろいろなことがいまのようにはできなかっただろうし、自分をもっとキライにならなければならなかったかもしれない。あるいは……生きていられなかったかもしれない。これがいまあってくれて良かったと……これがない世の中や時代でなくてほんとうに良かったと、しみじみ思っている。わたしは助けられている。救われている。この巡り合わせを感謝している。  そしてまたこの眼鏡は女主人のおしえてくれた、ひとのまこころそのものだった。他人である彼女と自分を信頼の輪で繋いでくれたものに他ならなかった。それまで誰もしてくれなかったことをしてくれたひとを……エマのたまさかの不出来が、けっして生まれながらの愚かしさや反抗心のせいではなく、そう成らざるをえない不運を負わされたゆえであったことに鋭く気づいてくれたひとを……裏切ることはできない。  誰もしてくれなかったこと。  それは、しばし立ち止まって静かに見つめてみてくれるということ。  頭から軽蔑したりジャマに思ったり疑ってかかったりするのではなく、とりあえず信じて、なんとか理解して、できるだけ良い方向に事態を改善しようとしてみてくれることだった。  それが、どんなに得難《えがた》く有難いことだったか。  そういう心根を持った誰かにめぐりあうということは、不運なさだめで助けを必要としているこどもにとってはまさに、希望そのものであった。家族の血縁の愛情を奪われたこどもにとっては。  眼鏡はエマの視野をひらき、世界を広く明るくしてくれたが、ケリー・ストウナーというひとりの女性の存在も同じことだった。文目《あやめ》もわかぬ真っ暗闇の中いまにも消えそうな蝋燭灯りしか持っていなかったも同然のエマにとって、かの謹厳ではあるが真っ当な女主人の存在は、新しい日の夜明けの太陽そのものであったのだ。  だから……  おいそれと買い換えなどできない。  ミスター・ジョーンズは……わかってくれるだろうか、こんな気持ちを?  考えはまとまりましたか?  照れなのか熟考のあげくなのか短いメモのような手紙が届いたのはその週の終わりごろで、あの街角の噴水のところで火曜日の午後にお待ちしていますからもし良かったらいらしてください、と、思いの外《ほか》あっさりと文面は閉じられていた。  もし、もっと濃厚なあるいは押しつけがましいメッセージだったら、臆して出掛けていくことができなかっただろう。  暖炉の上の写真たてにハタキをかけながら二日ほど考え、結局、女主人には詳しいことは何ら告げず、たんなる買い出しのついでを装って出掛けてみた。  ミスター・ジョーンズは魚を携えた少年の像の噴水の横に座ってにこにこと待っていた。こちらがすぐ鼻先に近づくまで、そのまま動かずじっとしていて、充分に近づいてからはじめて「今日はどうやらちゃんと見分けてくれたみたいですね」と言った。そう口走ってから、「ああ、すみません、皮肉なんか言うつもりじゃなかったのに!」と立ち上がった。「冗談ですから、ただのジョークですから!」両手を振り回していいわけをした。  洒脱というより、ほんとうはシャイで不器用なひとなのじゃないだろうか、とエマは思う。  それでも、若くて粋《いき》なロンドン紳士たるもの、重苦しくまじめであるよりは、むしろ愚かしいほどあるいは軽薄なぐらい軽妙なふりをするべきだと思っているのだろう。  だからエマもくどくど説明はしなかった。  なぜ新しい眼鏡が欲しくないのかについて。  ただ、必要ないのだ、と言った。このままで、いいのだと。 「うーん……遠慮はしないで欲しいんですけどね……」  ウィリアム・ジョーンズは不服そうに唇を尖らせたが、無理じいはしようとしなかった。 「すみません、せっかくのお申し出なのに」 「いえ。そんなことは。いいですけど」溜め息まじりに空を眺める。「なにか、エマさんにさしあげられるものがあったらなぁと思ったんです。この僕にも……僕があげたものがあなたの手元に、ひとつでいいからあってくれたらなあ、とそう思っていたんです」 「なにか?」 「そうです。ようは眼鏡じゃなくても……なんでもいいんです。ああ、そうです! なにかないですか、欲しいもの! 必要なもの」 「なにか……」  エマは頬が赤らむのを感じた。  なにか、なんでも、というのは罠《わな》だ。甘い恐ろしい罠だった。  とてつもなく恥ずかしいことだった。なんでもくれると言われて、自分がいったいぜんたいなにを欲しがっているのか、正直にこころに問うてみることは。真剣に考えてみることは。  胸をざわめかせることだった。なにかを欲しいと感じる気持ちを、なにかを欲望している告白を、隠すのではなく、押し殺すのではなく、はっきりと口にしてみることは。  それはなにかとても破廉恥《はれんち》で剥《む》き出《だ》しなこと、モロな、露骨な、あからさますぎてみっともないことだ。  秘めておけば誰にも知られずにすむのに、あえて赤裸々《せきらら》にするのは、他ならぬ自分の弱みを、ここを突かれるとダメだという点を、人前にさらけだすことになると思う。  なのに。 「手巾《ハンカチーフ》を……」  なぜだろう、すなおに言ってしまったのは。こんなに胸が苦しいのに。こんなに顔が熱くなるのに。 「……いつか……一枚、持てたらいいな、と……」 「ハンカチ?」  ミスター・ジョーンズは驚いた顔で問い返した。 「絹《シルク》とか、汕頭《スワトウ》とかなにか特別なものですか?」 「いえ……あの、ごくふつうの、レースの」 「わかりました、百枚でも二百枚でも!」ミスタ・ジョーンズは張り切って胸を張った。 「妹が懇意《こんい》にしているレース店が、たしか、フランス婦人肝入りというのが、ソーホーに!」  ショウケースいっぱいに商品を飾りたてた流行りのレース店の店内は、まるで雪の降りたての朝のよう。どこもかしこも純白で、息苦しいほど清潔で、歩くにつれてきらきらとさんざめき輝いた。  カットワークにトーションレー|ス《※》[#(トーションレースは、)イギリスに最初に入ってきたというヨーロッパのボビンレース。]、ドイリ|ー《※》[#(ドイリーは)卓上用の小型敷布を指す。]、リボン、サテン刺繍。ベッドリネンやテーブルセンターなどの超大物から、ちいさな少女の掌《てのひら》に載るほどの枕《ピロー》型サシェまで、ありとあらゆる布製品が店内を埋めつくしている。圧倒的に多い白の中にときおり、上品なパウダーブルーやアイスピンク、クリスマスめいた赤と緑と金がまじり、ビーズとフリルがきらきらしく塗《まぶ》されているのだった。どの商品も、みな雄弁で、さぁ見て、わたしを見て! と大声でさけんでいるかのよう。人形めいて愛くるしい風貌の大陸|訛《なま》りの店員自身もきわめて装飾過多でフェミニンなエプロンをし、くるくる縦ロールを編み上げた古風な金髪に実用的とはとてもいえないレース帽を小粋にななめにかぶって、まるでみずから売り物のひとつのような顔つきすらしているのだった。  迷いにまよい、あまりの選択肢の多さと、ここにあつめられた富の豪華さにほとんど窒息しそうになったエマが、ふと目にとめ、手にとったのは、素朴に白いブルージーレー|ス《※》[#(ブルージーレースも)ボビンレースの一種で、繊細さが特徴。]の一枚。  四角い麻布の周囲に木綿糸で繊細な手刺繍でボビンレー|ス《※》[#(ボビンレースとは、)糸巻を使ったレースのこと。]をほどこしてある。さりげなく上質で、おしゃれな紳士がポケットチーフにするのにふさわしいような一品であり、高貴なレディが秘密の宝物の褥《しとね》にするのに似合うだろう一品であった。その豪奢《ごうしゃ》でありながら品のよいハンカチの四つ端の緻密な編み目のモチーフが、よりによってラベンダーの花だった。薔薇《ばら》や百合《ゆり》、マリゴールドなどの丸い花形なら珍しくはないが、そこにはエマになじみの素朴なハーブの花穂が象《かたど》られていたのである。 「それですね? それが気にいったんですね?」  エマにできたのは、こくりとうなずくこと、ただ、それだけ。  ミスター・ジョーンズはくだんの店員に手を振ると、さっそくに品物を包ませた。たかが薄い小さな布一枚梱包するのに、どうだろうと思うような立派な箱、ゴージャスなリボン。エマがどきどきと胸をとどろかせている間に品はプレゼントの体裁《ていさい》を整えられ、ふたりは店を出た。外であらためて手渡された。 「さあ、どうぞ。あけてみてください」  嬉しそうに、ミスター・ジョーンズが言う。  エマは素直にリボンを解き、蓋をずらしてみた。  美しい布製品が、ちんまりと納まっていた。  エマの頬がぼうっと赤くなった。 「あ、そうか。ラベンダーなんだ。それ、ラベンダー模様だったんですね」  驚いたことに、彼は気づいた。 「お好きなんですね、ラベンダー。あなたはいつもラベンダーの香りがしている」 「きょうは、火曜ですから」エマはどぎまぎしながら言い、万一にも道路に落としたりしないようにハンカチーフをしまいなおした。「いつも月曜にリネン類をお洗濯して、火曜にアイロンをかけるんです」 「アイロン?」 「リネン水なんです」エマはすこしむきになってしまったかもしれない。「この香りは」わたしはそんな贅沢をする女ではありません。 「でも、庭にたくさん咲いたら、花がゆきすぎる前にサシェもつくります。バンドルも編みます……タンスにしまっておくとよい香りが……」  ああ、この素晴らしいリボンで、ぜひとも作ってさしあげよう。  エマは思った。  ジョーンズさんに。今年の夏のラベンダーで。すてきなバンドルを。  いくら彼のほうが圧倒的にお金持ちでも、こんなによくしていただきっぱなしじゃ申し訳ないもの。 「ありがとうございます、ジョーンズさん」  エマは言った。 「夢だったんです、昔から」 「ハンカチが?」 「レディの持ち物ですから」  そしてそのあくまで細かな編み目。  小さなさりげないものの中にこめられた洗練。上質。美しさ。  レースはもともと糸である。誰かの熟練した指がひとつひとつヒトメヒトメ編み上げていったものだ。正確に。丹念に。几帳面に。倦《う》むことなく。  そしてその糸もまた長い歳月をかけてそういうかたちになったもの、すぐれた品、工業製品だ。絹も綿も麻も天然の姿はまるでちがう、繭《まゆ》や綿花や苧麻《ちょま》からそれぞれの加工を経て巧みに紡ぎだされなければ使えるものにならない。  自然は素晴らしい。  だが、ひとの思いと技もまた、素晴らしい、とエマは思う。  たくさんのものが、誰かが思いと時間と技術をこめて作り出してはじめて、そこにありえたのである。  |この街《ロンドン》もそう。  世界そのものもそう。  あの日、……はじめてものが見えるようになった日、窓から見たあの眼前いっぱいの景色が、そうであるように。  この一枚のまっさらな、白いレースのハンカチーフも。  だから、……みつめているとなんともいえない気持ちになる。うっとりして、なんだか胸が熱くなる。  しばらくそうしてジッとみつめてしまっていて、ハッとした。ジョーンズさんをほったらかしにしてしまった。エマの放心癖。ミセス・ストウナーならからかうところだ。  が……ミスター・ジョーンズもジョーンズだ。同じようにぼうっとしている。どうも、彼の場合は、ハンカチをみつめているエマをみつめてぼうっとしていたようだが。  よかった。イラつかせていなかった。ホッとしながら、 「す、すみません、ぼんやりして」  あわてて謝ると、 「えっ、あっ、ああっ、いえっ、こちらこそ!」あわてて帽子に手をかけた。「いやあ、今日はいい天気で」 「曇りですけど」  目と目があうと、なんだか奇妙におかしくなって笑ってしまった。  あははははと明るく声をあげて笑う、その声がひとつになって、気がついたらいつの間にかいやに近くを歩いていた。  心の中で、なにかがつながったのをふたりは感じた。  細い糸と糸がキュッと確実に結ばれて、ひっぱってもけっしてとれない結び目をなし、ひと連《つら》なりのレースの中に編み込まれるように。いったん繋がれたら、もう解くのがむずかしい、解くとなにかを壊してしまう、そんな繋がりかたで。  いたって不器用でナイーブなふたりの恋は、こんなふうにゆるやかに、まるで潮《しお》が満ちてくるように、はじまったのだった。 [#改丁] [#ここから3字下げ] The Novel Emma story 3 " The Man From south "  第三話 南からの訪問者 [#ここで字下げ終わり]  いつもの週日の朝だった。  ウィリアムは巨大な執務机《デスク》の後ろに腰をおろしたまま、かすかに冷笑的なもの憂《う》い顔を作って、頷《うなず》いたり首を振ったり軽く肩をすくめたりするのに忙しかった。書類はサインされチェックされ、左の山から右の山に移動し、あるいは差し戻された。ジョーンズ王国の働《はたら》き蜂《ばち》たちが次から次へとブンブン稔《うな》りながらやってきては、目まぐるしく飛び去っていく。 「仕入れリストのご確認を」 「売り上げ報告書でございます」 「契約書にサインを」  大切な書類に署名をしようと構えて、ペンダコのある中指にいつの間にかインクがついてしまっているのに気づいた。書きやすいペン先というものはなぜ百本に一本ぐらいしかできないのか、そしてまた、さっきまで書きやすかったものがいきなり壊滅してしまうのはなぜなのか。少し開け放してある窓から吹いてくる風にうなじを撫《な》でられながら、ウィリアムはうめき、インクを吸取紙《すいとりがみ》で押さえ、顔をしかめた。  素晴らしい天気だ。  ロンドンには珍しく。  春の女神の復活を祝うような、爽《さわ》やかに晴れてあたたかな日。こんな日は薄暗い仕事場に押し込められ閉じこもって決裁だのなんだのをやっているより、運河に舟でも浮かべてゆっくり流されながらたまに釣り糸を垂《た》れてみたり、芝生《しばふ》の丘をどこまでも散歩したり、芳しい森木立を乗馬で散策したりするべきだと思う。それも、なるべくなら、愛する女性とふたりきりで。  仕事なんてものをするにはまったくもったいない日。  事業本部長だか新店舗店長代理だかのローマックスとかいうキンキン声のがまた新しい書類を携《たずさ》えてやってきて、揉《も》み手《て》をしながら、どことどこを読んでどこにサインをすればいいかを慇懃無礼《いんぎんぶれい》に説明する。  えい、ちくしょう。  こうアカラサマに赤ん坊扱い無能扱いされて踊らされていると、たまに反撃のひとつもしたくなる。 「例のサンバーンの船便はどうなった?」  ローマックスが、思わずハッと青い顔をするようなネタをわざと持ち出してみる。どうだ。これでも、ただやれと言われたことをハイハイやっているだけじゃなく、少しは自分の頭だって使っているんだ。おまえが覚えていて欲しくないと思うことぐらいちゃんと記憶しているんだぞ。 「ほら、きみの知人のポーランド貴族のなんとかいうひとが太鼓判おしたというアレだよ。聞くのと実際とは、なんだかずいぶん違うじゃないか。催促《さいそく》はしてるんだろうね?」 「は」ローマックスは麦わら色の頭頂をこちらにむけるまで腰をかがめて、上目遣《うわめづか》いにもごもご言った。「あいにくと遅れておりますようで。なんでも喜望峰《きぼうほう》付近で悪天候に見舞われたとかで……近日中には、とのことでしたが、ご懸念《けねん》でしたら、もう一度問い合わせてみますですが、はい」 「言訳《いいわけ》は手短《てみじか》に頼むと伝えてくれ」ウィリアムは冷酷でしかも凄味《すごみ》があるはずの渋い笑い顔を作って言った。「麗々しい形容詞やら時候の挨拶《あいさつ》ばかりの手紙をもらってもぜんぜん嬉しくないし、読んでいるヒマがない。こっちは棚を空けて待っているんだ。遅滞《ちたい》によって明らかに損害がでた場合には補償を求めるからそのつもりでと通達しておいてくれ」 「は」 「若造だからってナメられちゃたまらん。そうだろう?」 「仰せの通りで」  へこへこ頭をさげながら逃げ帰るように部屋を出ていくローマックスの姿にやや溜飲《りゅういん》をさげる。机の横にすっくと立って慇懃に沈黙を守ったままの執事《しつじ》のスティーブンスとなんとなく目があう。ウィリアムはちょっと照れくさくなって、えへへ、と相好《そうごう》を崩した。  と。 「ウィリアムさま!」  擦《す》れ違《ちが》うローマックスを突き飛ばさんばかりの勢いで廊下《ろうか》をかけてきたうら若い社員が、蒼白《そうはく》な顔をして扉のこちらがわで直立不動になった。 「し、失礼します、ただいま、お客さまが!」 「客?」  ウィリアムは怪訴《けげん》そうに言った。 「誰? 今日って、そんな予定があったっけ?」 「え、遠方より、お玄関のほうに」  ぱおーん。  信じられない音声が開けた窓からかすかに聞こえてきた。  ハムステッドのジョーンズ家の屋敷は、やや新興にすぎたが、高貴な血を引く階層の郊外の住まいと比べてもけして見劣《みおと》りがするようなものではない。正面玄関前の車寄せには充分なゆとりがあり、何組正式な客があって立て込んでも、豪奢《ごうしゃ》な多頭引き馬車を安全に回遊させうるだけの空間がある……はずだった。そこが窮屈《きゅうくつ》に、あるいは、混雑して見えたことはかつて一度もなかった。それまでは。  無理だ、ムチャだ、狭すぎる、とウィリアムが思ったのは、堅く巻かれた緋毛氈《ひもうせん》がくるくると解けて、遥《はる》かなる花道を成すのを見たとたんであった。  法螺貝《ほらがい》と金管楽器が打ち交わされ、甘く鼻にかかった歌声が鳴り響き、漆黒《しっこく》の肌をした偉丈夫やら素肌と豊満な曲線を強調する衣装にきらびやかな腕輪や足輪を何重にもつけた綺麗どころやらが芳香を放つ花びらをやたらにまき散らし絹の傘を高々とさしかける中に、藩王《マハラジャ》の息子は威風堂々、その姿を現した。英語には形容しうる単語が見当たらないかもしれない色合いの衣装に、宝石飾りをびっしりつけ、ターバンをくるくる巻いて。 「……ハキム……」  名をつぶやいただけで絶句するウィリアムに、遠来の友人は、異国調に独特にくっきりと色っぽく彫りの深い目鼻だちを、やぁやぁと気さくに笑み崩した。 「ひさしぶりだねウィリアム・ジョーンズ。いきなりですまん。驚いたか?」  直射日光のよく似合う浅黒い笑顔。ウィリアムは眩量を覚えた。 「驚かないわけないだろう」ぶつくさ言う。「ていうか……なんだあれ」  指さす先には、図体の大きな獣が数頭、ロンドンの空のもとではどうにも鮮やかすぎる色合いの布やらフリンジやらで飾りたてられてある。 「象だぞ?」ハキムは言った。「忘れたのか? ウチのほうでいっぱい見ただろう」 「知ってる。いやあれが象だということぐらいもちろんわかっている。そうじゃなくて……あんなもの、いったいなんで連れてきた」 「なんで? そう言われても」ハキムは面食らった顔をした。「私にとっては単なる下駄がわりだからな。船旅のあいだじゅう狭くて揺れて運動不足になって可哀相だったが、乗り合わせたこどもとかにはけっこう人気だったぞ」  象使いが挨拶するように促《うなが》しでもしたか、ぱおーん、と象たちがいっせいに嘶《いなな》き、長鼻をふりあげたり、重そうな前肢《まえあし》をチンチンしたりした。  はやくも塀の向こうにわらわらとご近所が見物に集まりはじめている。  そうこうする間に、てきぱきよく働く使用人たちが輿《こし》を組み上げ絹クッションを配置して庭の一角に仮初《かりそ》めの玉座を作り出した。ハキムはというと、いかにもあたりまえの顔でさっさとそこに納まったかと思うと、胡座《あぐら》をかいた膝《ひざ》の左右に裸体よりも色香の強い女人《にょにん》を数人はべらして、素早くなにか飲み物まで手にしている。 「……うう、幻覚をみているようだ……」ウィリアムはコメカミを揉《も》んだ。「我が家の玄関先でそういう景色をみることになるとは……安酒に悪酔いしたみたいな気分だ」 「連れてきた象たちを全部そのまま持って帰るのも厄介《やっかい》だ。気にいったのがあったら、やるぞ。好きなのをどれでも選ぶといい。世話係つきで置いていこう」 「ありがとう。すまんが遠慮させてもらう」  ふだん何食わして育てるんだか知らないけど、うちの厩舎《きゅうしゃ》にはこんなやつら、とても入れておけないぞ。だいいち、馬たちが恐慌する。 「それにしても何でまた急に英国《こっち》に?」 「ちょっとな」  ハキムは、蘭《らん》の花と紙の傘の飾られた不気味な色合いの飲み物を畷《すす》りながら、耳の下を掻《か》いた。 「私もそろそろ年頃だってんで、ばあやだなんだがうるさくて。それに、国元だとなにしろ顔が割れすぎているだろう。どこいってもめだってばかりなのがすっかりイヤになってな。たまにひとりでぶらっと旅にでてみたくなったのさ」 「ひとりで……?」  ウィリアムは思わずつぶやいた。顔を動かさぬままいまある視野にはいるだけでハキムの連れてきた「その他おおぜい」がざっと二十人ほど数えられる。散らしてしまった花びらを掃除したり、王子の踏んだ絨毯《じゅうたん》を巻きなおしたりしている。  これが簡素なひとり旅なら、引っ越しの場合はどうなるんだろう。 「お父上とケンカして家出でもしてきたのかと思った」 「まさか」ハキムは笑う。「親父《おやじ》は私にはべタ甘だもの。なにをやったって叱《しか》られはしない。それより、君だぞウィリアム。またすぐ来るからって涙の別れをしたのが二年も前だろ。手紙もたまだし、ちっとも遊びにきてくれやしない。つまんないったらありゃしない」 「すまん」ウィリアムは顔を赤くした。インドはエキゾチックで愉しくて大好きだったし実際またそのうち行きたい気持ちはやまやまだったが、なにしろ遠い。それに船旅はあまりに長くて退屈だ。費用もかかる。「このごろどうにも家業が忙しくてさ」 「ああ、ああ。君もいろいろとたいへんなんだろうよ。どうせそんなことだろうと思ったから」ハキムは胡座を組み換えた。「たまにはこっちから出向いてみたわけ」 「それはどうも。気をつかってもらって」  ウィリアムはもじもじした。いつまでもこう庭先で立ち話(相手はとっくに座っているが)をしているのもヘンだ。野次馬も集まってきてしまっている。しかし……単純に家に招いていいんだろうか? あんなのもいるのに? 「その……大丈夫なんだろうか、あんな大きなもの。暴れたりしたら……」 「ん? 象のことか? 問題ない」  ハキムが目をやると、象たちも気づいて、睫毛《まつげ》の長い目をぱちくりさせた。 「うわぁ、動いた!」 「わぁ踏まれる! ひいいい!」  ひとが驚き騒ぐのをしりめに、 「象というものは」ハキムは滔々《とうとう》と解説する。「からだこそあんなに大きくて重たいが、基本的には穏やかでおとなしく、めったなことでは怒ったりしない、賢くて神聖な動物だ」  ぱおーん! 「……じゃあ、あそこでのたうち回っているあれはなんなんだ」 「すべてこの世のものごとには例外が存在する」ハキムは合掌《がっしょう》した。「いくら象でも、なかには性格の悪いのもいる」  ハキムの連れてきた何頭かのうちでも、ちいさなマントのような耳を激しくバタつかせている一頭は、実に不快な意地の悪そうな陰湿な目であたりじゅうを脾睨《へいげい》している。すぼんだ菱形《ひしがた》にあけて牙《きば》をめだたせる口といい、裏を見せて高々もちあげた鼻といい、あいつはあきらかにあたりじゅうにケンカを売っているな、とウィリアムは思った。  インドで出会ったペットの仔象たちはもうすこしは愛嬌《あいきょう》や可愛げがあったような気がする。ひねくれハキムのことだ、あるいは普通のひとなら嫌がって敬遠するようなへンなのばかり集めて愛玩《あいがん》しているんじゃないだろうか。 「ま、そういうわけで」  放心しているウィリアムの肩をそのハキムがぽんと叩く。 「しばらく厄介になる」 「しばらくって」 「一週間かな」 「こ、これが、一週間も……?」 「心配ない、君には少しも迷惑などかけん。必要なものはみな持ってきたし」藩王《マハラジャ》の息子は胸を張り、色っぽく濡れたまなざしでまっすぐにウィリアムをみつめて請け合った。 「ただ、すまん。要《い》りようなもんを積めるだけ船に積みこんできちまったもんだから、荷物をおろすのに少々困っている。君んとこの使用人を貸せ。なるべく力持ちなやつを頼むな」  ……さっそく迷惑かけてるじゃないかぁ! 「ウィリアムさま?」スティーブンスがこちらを見る。 「しかたない、ひとをやって、手伝ってやってくれ」  ウィリアムは溜め息をついた。  この調子じゃ、波止場《はとば》あたりは大混乱の大騒ぎになっているだろう。めだちまくりだとか、場所|塞《ふさ》ぎだったりとか、そういうことで。すでにあたりじゅうに迷惑をかけまくっているかも……うう、そこにウチの連中が出掛けて行ったら、ハキムのバカがジョーンズ家の客だってことがすっかりバレてしまうじゃないか。 「そうそう、これでも、いちおうお忍びってやつだから」ハキムは急ぎ出掛けようとするジョーンズ家一同に気さくに声をかけた。「秘密厳守で頼むぞ」  おもしろおかしい記事の載った新聞は、リトルメリルボーン122番地の家にも届いた。 「へぇ」ミセス・ストウナーはインクの乾《かわ》ききらない紙面をツマサキでピンと弾いた。 「『インドの王族アタワーリ家ご子息ハキム王子 お忍びで、かのジョーンズ邸に滞在中』ですって」  そこらの額にせっせとハタキをかけていたエマが近づいてきて肩ごしに覗き込むのに、ほら、ここよ、とあらためて指さしてやる。お忍びのはずのハキム・アタワーリ氏が、エキゾチックなおともを大勢ひき連れてにこにこしているイラストがデカデカと掲載されている。いやにグラマラスな異国の女性たちの絵にエマの頬《ほお》がすこし赤くなる。 「こんなインドの王子さまとおともだち付き合いとはね! 貿易をやっているんだから無理ないんでしょうけど、さすがジョーンズさん、顔が広いわ。まぁこの手の新聞のことだから、多少誇張はあるわね。きっとこの坊やも、インドじゃ名士かもしれないけど、ほんとにほんものの王族なのかどうかなんかわかったもんじゃないわ」  ケリー・ストウナーはご存じなかったがその記事は珍しくおおむね正確であった。誇張しようにもモトネタそのものがすでに充分に驚愕《きょうがく》ものでしかも煽情的《せんじょうてき》であったので。 「インド……」  エマは壁からはずした額を手にしたまま、首をかしげた。 「インドのかたにとっては、ロンドンは、ずいぶん寒いでしょうね」 「そうね。特にこの|女性たち《ガールズ》。ほとんどサロメみたいな恰好しかしていないようだし」 「インドのかたは、たしか、馬のかわりに象に乗るんですよね」 「っていうけれど」ケリーは眉《まゆ》を寄せた。「まさかよその大陸からここまで延々と乗ってはこれないでしょう! 間に海だってあるんだし」 「ですよね」エマは額を戻しかけながら、自分で自分の幼稚《ようち》さ加減にはにかんだ。「リージェントパークの動物園で前にチラッと見ましたけど……馬のように象を使うなんて……」 「ははぁ」ケリーは新聞から顔をあげた。「たしかに、実物を見ることができたら壮観でしょうね。象を連《つら》ねたハンニバルの軍勢とか。アスコット競馬みたいなのを象でやってみたりとか。あたしだって見たいわそりゃ!」  あはは、とふたりは顔を見合わせて笑った。 「そんなの、|この街《ロンドン》ではとても無理ですよね」  おりしもそのころ。 「じょ、じょ、じょ、じょうだんじゃな、あいたたたたた!」  ウィリアムは舌を噛《か》みながら、必死に声を張り上げていた。 「たのむ。やめろ。もういい。とめて。おろして。助けて。おい、聞こえないのか!」  歩く象の上で喋《しゃべ》るのはすこぶる危険なことだった。まして大声で怒鳴ろうとするのは。  なにしろ輿は、象の灰色の分厚い皮膚《ひふ》の背中にポンと置いて軽く括《くく》りつけてあるだけで、馬の鞍とは比べ物にならないほど揺れる。そもそも鐙《あぶみ》とか手綱《たづな》とかといったものがないので、踏ん張りようもつかまりようもなく、乗り物の上下左右やたらな動きに自分を同調させる手段もない。ないとしか思えない。なぜ、隣の象の輿に気楽に胡座《あぐら》をかいているだけにしか見えないハキムが、一流宮廷馬術家なみの優雅さでそのまま乗っていられるのか、理解も想像も絶している。  いっそ象使いがそうしているように頭の後ろの窪みに跨《また》がったほうがよほどマシに安定するのではないかと思う。 「どうだ、愉快だろう!」  ハキムは派手な色彩の天蓋《てんがい》の下にどっかり腰を据えて、象の動きに揺すられながら、平然と水ギセルを燻《くゆ》らせている。たまさか居合わせたり通りすがったり擦れ違ったりして、目を剥く余所の馬車や通行人に、いかにも王族らしく愛想よく手を振ったり軽く会釈《えしゃく》をしたりしているし、追いかけてくるこどもを見ると菓子や花やインドの金貨を投げ与えたりまでする。 「インドも英国も変わらんなぁ! こうして高いところから眺めると、地平線の果てまでもこの世がみな私のものであるかのような気がしてくる。私の目の届く限りここは無事だ安泰だというか、私の威光を浴《あ》びたくて集まってくる庶民《しょみん》がみな一様にけなげに見えるというか……いや、かわゆいかわゆい! かははははは」  たしかにやたら背が高くなったみたいで、遠くまでよく見えるけれど、とウィリアムは思った。眺めを愉しむ余裕などあらばこそ。前後左右上下斜めありとあらゆる方向に揺すられて、どこを見ていても目がまわる。だいいち、どうもこう……この不規則で予測不能な揺れは……消化器官にあまりにもよくない。そうでなくても僕は内臓が弱くて、ともすると船酔いしやすい質《たち》なんだ。 「あっ、いかん新聞記者どもだ」  よくそんなものの見分けがつくな。 「おい、ウィリアム、逃げるぞ」  異国の王子は面白いことを企《たくら》んだいけないこどものようなすこぶる悪戯《いたずら》っぽく色っぽい真っ黒な笑顔をクシャッとさせる。 「は?」 「しかたないだろう、だって、お忍びなんだから。ついでに君にも体験させてやるよ、象の足っていうものを。めったに味わえないもんだぞ! それいけえ!」  ハキムは頭のところに乗った象使いにも国のことばで何か素早く命令をしたらしい。象使いはあわてて背筋を起こすと、鉤《かぎ》のついた長い棒で象の顔をぴしゃりとひっかいた。どうやら鞭《むち》をくれたようなものだったらしい。たちまち象が走り出す。 「こんな図体《ずうたい》だが、やればできる、こいつら意外にやるんだぜ。見た目よりよほど速いのだ。どうだ、ほら、みんなびっくりしているぞ、わはははは!」  うわああああ!  地震のない国のひとびとは、異国の巨大生物の疾走《しっそう》のせいで突如勃発《とつじょぼっぱつ》したものすごい震動と地響きに、面食らって泡を食った。機敏なものは蜘蛛《くも》の子を散らすように逃げ出したり物陰に隠れたりしたが、とっさのことになにがなんだかわかりもせず、逃げ遅れて巻き込まれたもののほうが多かった。  ガス灯が倒れ、石畳《いしだたみ》がめくれ、そこらの露店はひっくりかえる。果物が散らばり、桶《おけ》が割れる。こどもや老人は足をとられて転びかけ互いに抱き合い、馬車馬たちはパニックを起こしてめったやたらに進んでは絡《から》まりあい、衝突しあう。窓辺に置かれていた植木鉢が落ち、ぼうっと立ち尽くしていた行商人《コスタマンガー》の脳天を直撃、あんぐり口をあけて見物する老人の懐《ふところ》から、路上暮らしの孤児が金目のものを失敬するつもりでズボン吊りをひっぱってしまう。下水の蓋がずれてひとが穴にはまり、艀《はしけ》から陸に飛び移りかけていたひとが目測をあやまってテムズ川に落ちる。抱かれた猫は老女の腕に爪《つめ》をたて、雨樋《あまどい》のガーゴイルがガクリと外れて、驚いた鳩たちがいっせいに飛び立つ。  ぱおーん!  ただ、ただ、振り落とされないようにしがみついているだけがせいいっぱいだったウィリアムには、象がどこをどう疾走しているのか、自分が街のどのへんに差しかかっているのかなど、考えているヒマは微塵《みじん》もなかった。でんぐりがえり振《よじ》られながら喉元までこみあげた胃をなるべく下のほうに押し返すだけで必死だったのだ。全身は激しく揺すぶられ、輿の中でからだが完全に浮き上がったかと思うと、どこやらが激しくぶつかった。スピードのものすごさとなすすべのなさに全身が棒のように硬直し、恐怖で髪が逆立った。  もうだめだ。振り落とされる。いや、それより、うう、もう限界だ、口の中にへんな味がする、吐いてしまいそうだ!  と、  走馬灯のように走り抜けていく景色の中に、ふと、信じられないものを、ウィリアムは見た。  縦長窓《マリオン》を押しあげて、顔をだそうとしている女性。  突然の珍事を見物せんと、たまさか行く手に居合わせたあちこちの家の(たいがいは二階や三階の)窓からひとびとが顔をのぞかせ、呼びかわし、あきれた様子でこちらを眺めていることが少なくないのにはとっくに気づいていたが、その顔は、その顔だけは単なる背景のひとつとして見過ごしにできなかった。疾駆しながら、驚きながら、揺すぶられてガクガクしながら、追いかけて見つめ続けずにはいられなかった。 「……ジョーンズさん!」  ウソみたいだったが、夢ではない。  メイド服にメイド帽のそのひとは、窓から身を乗り出してたしかに叫んだのだから。 「エマさん」  つぶやいて、ブルッと震えて、ほんの少しだけ正気にかえった。ウィリアムは輿の上で膝立ちし、なんとか必死の中腰になり、どこやらにつかまりながら辛《かろ》うじて立ち上がり、さかんに突き上げられながら、とうとう象の後頭部にしがみついている象使いの肩を掴むのに成功した。 「とまれ、たのむ、停めてくれ……うげろげろでろ〜〜」  ことばの最後のほうは、ついに堪《こら》えきれなかった吐潟物《としゃぶつ》とともに激しい噴水のようになって空中にあふれだした。  ラベンダーだ。  寝椅子のマットレスの硬さを頼もしく背中に感じながら、ウィリアムはホッとして微笑《ほほえ》んだ。ああ、ステキだ。やすらげる、癒《いや》される、こころ和《なご》む、この香り。  榛《はしばみ》色の瞳《ひとみ》のひとの楚々《そそ》とした姿にいつもうっすらと纏《まと》われている芳香。だから彼女はいわば常に淡パープル色の光のヴェールをたなびかせているようなものだ。どんなに着古して色彩に乏しい地味な姿かたちをしていても、まるで魂そのものから発するような高貴にして上品なラベンダーカラーが……  ひやっ。  ウィリアムの心臓が魚のように跳ねた。  額にあてがわれた冷たく濡れた布の清潔な感触に、いきなり我にかえり、気絶する直前にいったいなにがあったかを思い出してしまった。 「……ぁあ!」  いきなり吠えながら起き上がると、エマがびっくりして飛びのいた。額にのせたタオルの位置を直そうとかがみかけていたので、あやうくぶつかるところだった。  恥ずかしくて、そして嬉しくて、たちまち頬がカッとなった。 「す、すみませあの僕はいったい何故《なぜ》ここに!」  あんなみっともないところをみられてしまったショック、愛《いと》しいひとに甘やかし赤子のように世話してもらっている快感。相反する感情の嵐に耳の奥で怒濤《どとう》となる血流がざあざあ滝と鳴る。 「象酔いね」  ミセス・ストウナーは、冷徹な声で、顔もにこりともさせずに断定した。かたわらの安楽椅子にかけて、こちらをまっすぐに見つめているのだった。 「あなたは昔からちょっと調子が悪いと、すぐに乗り物酔いする性分《しょうぶん》だったでしょう。馬車でもボートでもそうだったけど……子供部屋でグレイスにせがまれるまま、彼女を抱っこして、木馬にのって、延々かたかた揺らしているうちに、いきなり泡ふいてひっくりかえったことがあったわよね。気持ち悪いなら悪いでさっさとやめればいいのに、妙に依怙地《いこじ》にがんばる性分《しょうぶん》、まるでかわっていないみたいね」  ビシバシ言われたおかげで、逆に、意識がはっきりしてきた。 「……降ろしてくれって、さんざん頼んだんですが」ウィリアムは額のタオルをずらして、顔じゅうを拭った。ひどい汗だ。べとべとする。「いえ、わかってます。そもそも、乗ったのがまちがいだったんです。どんなに誘われても」 「すまん」  頭の真上方面から声がした。  顎をあげてみると、なんだかターバンがしぼんで見えるハキムの顔がさかさまになる。 「わるかった」  王子はいやに口数が少なかった。顔もへんにこわばらせて、妙に青ざめているのだった。常に自信満々で傍若無人《ぼうじゃくぶじん》なやつが、まるで借りてきた猫だ。  さすがに反省したんだな、とウィリアムは思った。僕を殺しかけたから。 「いいよ、まぁそんなに落ち込むな」  ウィリアムは寝椅子から起き上がり、乱れた髪をせいいっぱい撫でつけておいて、元教師とエマに紹介した。 「遅くなりました。彼はハキム・アタワーリと言います。インドの北西ラジャスタン地方を代々治めている藩王一族のお世継ぎで、ようするに王子さま。僕が親父に連れられてあっちに行ってた時、ジャイプールとかアーメダバードとか、いろいろ案内してくれたりしたんで……こんどはウチに滞在してまして」 「…………」ハキムは無言でアタマだけ下げる。 「ミセス・ケリー・ストウナー、小さいころ、僕やグレイスの家庭教師《ガヴァネス》をしてくださったかただ。あちらはエマ」  ハキムは両手を中国人のように派手な衣装の袖につっこむと、さらに腰を折ってぶっきらぼうな会釈をくりかえした。  浅黒い顔をひきつらせ、なにも言わない。ケリー・ストウナーやエマのほうに目をあげようともしない。まるで英語がろくにわからないみたいにみえるし、見知らぬ人間には壁をつくって閉じこもり、なんら真意をみせないようにする、いわゆるふつうの東洋人のようでもある。  ……なんだ?  まったくへんだ。  ぜんぜん彼らしくないぞ。 「新聞で拝見しましたわ」  ミセス・ストウナーがさりげなく右手をさしのべ、握手《あくしゅ》あるいは接吻《せっぷん》の真似を許そうとした。ハキムは動かない。まるで西洋風の礼儀なんか心得ない野蛮人を装っている。  ミセス・ストウナーは心得てすぐにサッと手をおろした。客に、そしてウィリアムに恥をかかせないように。 「実をいうと、その時、エマとお噂《うわさ》してましたのよ。まさか象に乗っておいでじゃないでしょうね、と」  床に視線を落として軽くうなだれたままのハキムの頬がかすかにビクついたが、それでも彼はやはり辛抱つよくすこしも動こうとしなかった。 「エマにはとても良かったんですわ。象にひとが乗ってるところ、できればこの目で見てみたいって、ちょうど申しておりましたんですから。願いがかなったのよね」 「はい」  エマは短く言い、ウィリアムにちょっと笑いかけた。 「しっかりみせていただいてしまいました」 「そうなんだ! だったら、やれやれ、こんなひどい目にあった甲斐《かい》もなくはなかったと言えますよ。すっかり……その、あなたには、ひどいご迷惑をおかけしてしまいましたけど」 「そんなこと」  ぬるくなったタオルを握りしめていると、エマはそれを受け取り、洗面器で絞った。  白い指の繊手がごく冷たい水のせいでかすかに腫《は》れて赤らんでいるのを、ウィリアムはじっと見つめた。痛ましくて申し訳なくて、それでいて、なんのためらいもなく、この自分のために進んでそうしてくれていることが誇らしく嬉しい。例によって例のごとく、相いれないはずの、矛盾《むじゅん》した気持ち。エマを見るときいつも感じる、こそばゆいような、じれったいような、なんとも不思議な、心地よいような落ち着かないようなザワザワした気持ち。  ああ、彼女の手をとって、この吐息とこの胸であたためてあげられたら。ヒビやあかぎれのできるような辛い水しごとなんて、もうするな、金輪際《こんりんざい》しなくていい、と、言ってあげられたら。  あの指に似合うのは、金か銀か、それとも真珠か宝石か……あるいはラベンダーを彷彿とさせる紫水晶ではどうだろう? もしも指輪を買ってきて、そっとはめてあげたりしたら、彼女はいったいどうするだろう……。 「ねぇ、もしかして」と、からかう調子でケリーがいうので、ウィリアムはあわてて迷妄からさめた。「実は、ちょいと見せにいらしてくださったんじゃありませんの、坊っちゃま? あるいは、象にお乗りあそばした珍しくも凛々しいお姿を、わたくしどもに、わざわざ?」 「えっと」  ウィリアムは赤くなった。ウソをつくのは得意ではない。偶然だ。  だが、そう誤解しておいてくれるならくれるでもいいと思う。  そういうことを思いついていたら、実際、そうしていたかもしれないし。いやつまり、象を操ってどこか行きたいところに行く、などという芸当ができたとしたらの話だが。 「それにしても、ほんとうにいつも突然だわね、あなたがくるというと約束《アポ》なしの不意打ち訪問ばかり」 「すみません」 「まぁ、今回はしょうがないけれど、たまには思い出してちょうだいね、わたくしも淑女のうちだということを」 「ああ、もちろんです!」  ウィリアムは嬉しくて声をはりあげた。 「この次は、きっと正式なお約束をしてから参ります。本日ご迷惑をおかけしたお詫びと、看病のお礼に……近々必ずや!」  そうとも。  これほど完壁な理由ができたからには、大手を振って来るとも!  コーヒーがすむと、父リチャード・ジョーンズは自慢の長女のほうを見ておまえたちで一曲|披露《ひろう》してさしあげては、と提案ぶった命令をした。  上客でかつ重要な取引相手の跡継ぎである王子の機嫌は損ねたくないものの、異国の若者相手にいったいどうすれば座を持たせることができるのか、予測がつかず、苦肉の策なのであった。  なにせ客人は、あまり食欲がないらしく、さまざまな話を振ってもろくに返事もせず、ともすると上の空になる。ふだんは陽気で健啖家《けんたんか》、人見知りなどおよそしないはずの青年なのに、どうしたことだろう。長旅の疲れがいまごろになって出たのか、英国の献立《こんだて》が口にあわないのか、そのようなことならまだいいが、我が家での待遇になにか至らない点でもあるのだとしたら拙《まず》い。あとで家政婦《ハウスキーパー》に言いつけて、さらなる歓待をよくよく検討させなければ、とジョーンズ氏は思う。思って、苦々しさを噛み殺す。  こんな心配は自分ではなく長男が、ハキムの友人としてなせばよいことだというのに。  ウィリアムときたら、象酔いでまだ具合が悪いし、あしたもシゴトがはやいから、とか何とか言って、食事を早めに切り上げ、とっとと自室に逃げてしまった。無責任はなはだしい。王子も王子だ。どうせなら黙ってあれについていって、男同士で遊んでいてくれればいいものを、なにを思ってか、ぼんやり居残って、憂鬱《ゆううつ》そうな不景気なまなざしを宙に投げかけているのだから。  こんな時、たよりになるのは、やはりしっかりものの長女である。グレイスもよく心得て、怯《ひる》む妹をさぁさぁとうながしながら素直にピアノの前に行き、腰をおろした。いきなりのご指名にふくれッ面のヴィヴィアンは、姉の向こう側、必要なら楽譜を眺められるような位置に立って、追い詰められた獣さながら、父と遠来の客の双方を交互に眺めては、ゾッとするといわんばかりに両手で自分を抱きしめた。 「どんな歌がよろしいかしら」グレイスが訊ねる。 「小曲《ソネット》でも」  楽譜が選ばれ、軽快なメロディが流れ、おきゃんな次女がいかにもおとなぶりたい年頃の少女らしい背伸びした感じのソプラノを披露しはじめると、ハキムはいきなりハッと我にかえったような顔をした。かと思うと、やおら立ち上がり、そこらにあったスツールを無造作につかんで、場所をうつした。弾き手歌い手の表情を見逃さない、かぶりつきの位置に。  あら、やっと気をつかう気になったのね、と、何食わぬ顔で伴奏《ばんそう》しながらグレイスは思った。  僕のためにわざわざ弾いて歌ってくださっていることはちゃんとわかっています、だから、こうして、真剣に鑑賞しますよ、とおっしゃらんばかりですこと。  エキゾチックな風貌の王子にまじまじと見つめられたヴィヴィアンが頬を紅潮させて無理に踏ん張ったので、高音が震えて、ますます不安定になった。しょうがないので、グレイスも声をあわせ、低パートをうけもって、ハーモニーになるようにした。なんとかかんとか、さほど聞き苦しくない合唱ができたかと思う。  歌が終わると、王子と弟たちが熱烈ぶって、父と執事が慇懃《いんぎん》に拍手をしてくれる。二曲歌い、リクエストをうけて、もう一曲歌った。  ヴィヴイアンが汗びっしょりになったので、そのへんがしおどきだった。  グレイスはちょっとスカートをつまんで腰をうかせ、会釈をした。 「すばらしい演奏を、どうもありがとうございました」  闇より黒く濡れた瞳のセクシーな異国の若者は、拍手をしながら軽やかに立ってくると、恭《うやうや》しく腰をかがめてグレイスの手をとり、騎士の接吻のまねごとをした。 「つきましては、このお礼に、私めになにか贈り物をさせてください」 「あら」  よしてください、そんなお気遣いなんていいんですよ、と言おうとしたところに、 「ほんとおっ!」ヴィヴィアンの悲鳴のような叫びがかぶさった。「ほんとにいいの、ハキムさま!」 「もちろんですとも、姫」  王子が片膝ついて微笑むと、烏の羽根のようなつややかな睫毛が端正な顔だちに濃い影を落として、稚《おさな》い妹の頬をますます赤くさせた。 「私はたいへんな金持ちなのですからね。見くびってはいけません。あなたのご希望ぐらいなんでも叶えてみせますよ。さぁ、なにがお望みなのですか、どうか、おっしゃってください」 「あのね、あのねっ!」嬉しすぎてぴょんぴょん跳ね、息をきらし上擦《うわず》りながら、ヴィヴィアンは言った。「あたし、ずっとずううっと、欲しかったものがあるの。レイトンの店に、前々から飾ってあるの。グリーンのパピエ・マシェで真珠貝の象嵌《ぞうがん》がしてあって、とっっっても素敵な化粧《バニティ》ケースでっ!」 「ヴイヴイーったら」グレイスは眉をひそめたが 「まぁまぁ」王子は浅黒い手をあげて彼女を制した。「それじゃあ、姫、よろしかったら、明日さっそくまいりましょうか。私をその店に案内してください」 「わぁい、やったー!」 「ありがとう、ハキムくん。ヴィヴィアン、甘えるのもいいが、ほどほどにな。ご迷惑にならん範囲で」  父リチャードはクギをさすようにコホンと咳をする。だが、座が盛り上がったのをみてあきらかにホッとしている様子だ。  このひとったら、いったいどうしたのかしら。何を企《たくら》んでいるのかしら。グレイスが横目でながめると、ハキムは、いとも色っぽく濡れた瞳で、なにか問題でも?と、平然と見つめ返した。 「あなたもご一緒にいらっしゃいますよね、ミス・ジョーンズ」 「そうね」ヴィヴィーひとりをやったのでは、どんなひどいガラクタを、それも法外な値段で、買ってくるか、わかったもんじゃない。あまりひどいことをするのは誰かがとめないと。「もちろん、是非《ぜひ》ともうかがいますわ。でも、象はお許しください。ふつうの馬車でまいりましょうね」  リージェント通りの趣味の雑貨店は時ならぬ喧騒《けんそう》に包まれた。  なんだかよくわからないが、どうも人だかりがしているようだ、という理由で、さらにひとが集まり、立ち止まり、覗き込み、つまり人だかりがますます増える。おかげで、はじめは中にまで入ってみるつもりなどなかったものが、行き掛かり上、あるいは、背中を押されて、また何人か、ガラス戸のうちに雪崩《なだ》れ落《お》ちることになる。  そのガラス戸から、とにかく一刻もはやく主人《オーナー》を探し出してお連れするんだぞ! と耳打ちをして使い走りの小僧を送り出すと、小柄で小太りな店長は口髭《くちひげ》とチョッキを急ぎ両手で整《ととの》えなおして、 「いらつしゃいませ〜!」  野次馬一同に、ぴかぴかの笑みを振り向けた。  店の最奥《さいおう》では、売り子のサラが本来は雑用係の小娘ふたりほどを手足にして、てんてこまいの応対をしている。  突然、黒髪の異邦人をエスコート役にあらわれた美しいふたりの上流階級令嬢を、しっかりと腰掛けさせ、目の前の小テーブルやショウケースの上に、店自慢のさまざまな品を並べては、また、セッセと片づけさせていたのである。  茶盆に小匣《こばこ》、手鏡、帳面、籠や手提げバッグ、さまざまな布製品、花瓶に傘たて、ハンカチに匂い袋。人形屋敷《ドールハウス》用のミニチュア家具と、それとおそろいな等身大の家具などなど。ささやかなものから、とんでもなく高価なものまで、小物も、大物も、お宝もガラクタも、いわゆる婦人好みのありとあらゆる雑貨のたぐいがところ狭しと並べられては撤去《てっきょ》された。ヴィヴィーは興奮のあまり半《なか》ば失神しているし、グレイスはそろそろ疲れて目がまわってきた。サラは辛抱強くひとつひとつの美点を説明し、必要な場合には欠点すら暴《あば》いた。  店内にうっかり紛れ込んでしまったその他大勢通りすがりの野次馬たちは、ふたりのお嬢さまのお目にかなわず、サッサとしまいこまれたりもとの棚に戻されたりする品に、さも興味を抱いたかのごとく演技をしておりおり見聞しながら、その実、なにくわぬ顔つきで散歩でもしているような絹サテン服の異国の王子にチラチラと目をやっては、あれが噂の、お忍びのインド人かと、ひとり合点にいったり連れ合いどうしうなずきあったりするのだった。ひと通り納得するとまぁたいがいの場合は結局はなにひとつ買うこともなくまたオモテに出ていくわけで、おそらくそこらの路上で「いやぁ、びっくりした、間近に見ちゃったね、インドの王子さま!」などと喋りあうのだろう。  それでも、あの店には、例のインドの王族が出没したそうだ! という評判がたってくれるなら、もうそれだけでもたいそうな宣伝効果だ。  当分、それでひとの流れが絶えないだろう。見るだけのつもりでやってきて、ちょっと欲しいものをみつけてしまってくれるひとが少なくないことを祈りたい。  中には、インドの王子が買っていったというものと同じものを欲しいと注文するような酔狂《すいきょう》なひともあるだろう。おう、そうそう。それを見越して、しっかり発注をかけておかなければ。  店長はホクホク顔で、なにかこの嬉しいありがたい客が欲しいというものがあったなら、とにかくおもいきりサービスしようと心にきめていた。もしもインドの王族が値切ったり、交渉したりを細かく愉しむタイプなのなら。まぁ、たぶん、そんなことはなさらないのではないか、なにしろ王族なのだから、おそらく太っ腹に、こっからここまで全部くれたまえ、とおっしゃってくださるだろう。そういうのを店としてはおおいに期待するわけだが。 「まいど、ご贔屓《ひいき》にぃ」  またひとり、作り笑顔で路上の野次馬の群れの中に送り戻したそのとたん、 「ねぇ」  ぽんぽん、と、いきなり肩を叩かれて、あわてて振り返ってギョッとした。  当の人寄せパンダならぬお忍びのインドの王子さまが、いたって気さくな様子でポリポリと頭を掻いている。その手には、店自慢のコレクションのうちの最上の品のひとつであるところの、小鳥と花をステンシルし金箔蒔絵《きんぱくまきえ》した黒い小皿が載っている。 「これ、なに? カチンカチンだけど、漆器《しっき》じゃねーな。光沢が違うし、そもそもウルシの匂いがまるでしない」 「おおお、左様でございます、さすが、東洋のおかたはお目が高い!」  店長はハキムを店の隅《すみ》のほうにひっぱっていくと、もっとわかり易《やす》い、つまりデキの悪い品物をいくつか見本にして説明した。 「パピエ・マシェ、つまり、噛み砕いた紙、と呼びます工芸品でございまして、もともと我が国のバーミンガム地方で発明されたものなのです。名前の示すとおりの紙粘土に、ニカワだのチョークだの砂だのを混ぜまして焼きかためますと、これこのように堅固なものになります。その素材に、象嵌《ぞうがん》、手描き、蒔絵、印判、大理石模倣《マーブリング》などなど、さまざまな手法をこらしまして装飾いたしますと、さまざまな意匠《いしょう》の小物ができあがるわけでして。中国趣味《シノワズリ》や漆器《ジャポネ》のほんものはあまりにも希少で高価でございますので、ま、ようするに、見た目やら雰囲気やらをよく似せたこういった模造品がさかんに作られた時代があったのです。ここ二十年ばかりは銀メッキ製品などがはやり出してだいぶ廃《すた》れてしまいましたが、お若いご婦人などには、お手頃でもありますし、デザインの愉しく美しいもの、珍しくおもしろいものなどは、いまでも好事家《こうずか》のかた骨董《こっとう》好きのかたなどに案外に人気がありまして」 「なんだ、ようするに贋物《にせもの》か」  ハキムはうんざりし、手にもった小物をポイとそこらに捨てるように無造作にほうり出した。店長があわてて空中で受け止める。 「なあ、親爺」ハキムはその店長の襟首をつかまえて、耳元に囁いた。「ぶっちゃけ教えろ。おたくよりマシな品揃えの店といったらどこを推薦《すいせん》する。オンナ好きのするこういうなんだかんだを売ってる店のうちでだぞ。ここのような見かけ倒しのチャチな三流品ではなく、ほんとにほんものの淑女のための世界の一級品をちゃんと取り揃えてあるようなところのことだ」 「……ご婦人のためのお品、でございますか」店長は赤面しながら、思い切り声をひそめた。「ぶっちゃけ申しますと、そのようなご用命は、やはり、天下のウィルバー&ホプキンス商会さんが、さすが、格上かな、と」 「書け」  ハキムはさっき店長からもらったばかりの名刺を出した。 「そんな名前は覚えきれん。馬車屋にみせたらわかるように書け」 「少しお待ちくださいませ」  店長はチョッキのポケットから眼鏡と手帳をだすと、ライバルと言うには恐れ多い超一流有名店の名前と住所をさらさら書き記した。 「これでよろしいかと」 「ありがと。あんたいいひとだな」  ハキムが笑うと真っ白な歯が照り映えて、こどものように屈託がなく、店長は思わずドキドキした。ちょっとクヤシイが、ほんとうのことを正直に教えて、良かった、と思う。 「ついでに、頼む。ちょっとバックれるから、あのふたりをよくもてなして、欲しいというもんはなんでも買ってやれ。いくらでもいい。あとで請求書をまわせ。でもって、家まで誰かつけてちゃんと送ってやってくれ。じゃな! 頼んだぞ」 「あっ、えっ? お客さま、お客さまっっ!」  妙にはりきっている。  滞《とどこお》りなく仕事をこなしている。  これ以上ないほど正当な理由を得、これで、いつでも好きな時に「お詫びとお礼に」訪ねてゆけるのだと思うと笑顔ウキウキ心が弾むウィリアムは、いつになく有能で上機嫌で、人生はじまって以来というほど勤勉であった。まさに、ジョーンズ家のひとびとが次代当主にはこうであってほしいと願うような様相を、ここにきていきなり示してみせたのであった。  いつ行こうか、行ったらどんな話をしようか、そうしたらエマがどんな顔をするか。  空想するのが楽しくてならない。  読んでサインをしろといわれた書類のその読んでいる中のなにげない単語のひとつに……たとえば「in case of emergency」の「緊急」のEとMのつながりなどに……不意にそのひとの仄白《ほのじろ》い顔をすこぶるリアルに思い出し、ちょっとうつむいた時の眼鏡のガラスのきらめきや、襟足のかすかなほつれ髪などをいまそこにあるかのごとくにきめ細かく思い描いては、いきなりパタリと手を止めて、ぽかんと宙を見つめたままでニマニマし、すぐにひとりで照れて、いやぁ、そんなのダメだダメだまだ無理だ、と首を振って、また気をとりなおして仕事に戻る。ウィリアムはかなり幸福であったが、部下たちにとってはやや不気味であった。  渡した書類を受け取ってすぐに持ち場に戻ろうとほとんど中腰で待っているのに、若旦那さまは、突然、どこかの恍惚境《こうこつきょう》に陥って思考停止なさってしまう。ウィリアムとしては「ほんの一瞬、ちょっと気がそれているだけ」なつもりであったが、待たされているほうにしてみれば心許《こころもと》ないことこの上ない。どうしたものか、いつまで待てばいいのか、まさか書類になにか不備でもあって怒鳴りつけられるのではないか。どきどきしながら、待ちぼうけさせられることになる。 「なにかの発作《ほっさ》ではないですよね?」  お目付役のスティーブンスはおりおり誰かれから、愚痴《ぐち》とも相談ともつかぬ報告をうけることになった。 「ウィリアムさまは大丈夫ですよね?」  もちろん大丈夫だともなにをバカな、と、とりあえず叱り、めったなことを言いふらすなと箝口令《かんこうれい》を敷いたものの、抜け目ない執事はことの次第をほぼ把握《はあく》していた。そもそもウィリアムに自分のしていることに対して後ろめたさはなく、はたまた、もとからものごとを隠し立てしようなどという発想も器用さもないのだからあたりまえだ。  ……エマ!  元|家庭教師《ガヴァネス》のところの小間使い。  スティーブンスのことだ、すでにその顔や素性《すじょう》は確かめてあった。  なるほど姿の良い、立ち居ふるまいの落ち着いた、見苦しくない娘ではある。  春泥の路肩にふいに咲く一輪のスミレのようだ、と執事は思った。ろくに日もあたらぬひとの足元の目立たぬところにあるが、ひとたび目を投ずれば、蘭《らん》にも薔薇《ばら》にも外国《とつくに》のどこやらから輸入された珍妙な花々にも勝るとも劣らぬほどの容姿はととのえて咲いているのである。小さなありふれたものであるゆえに、可憐《かれん》で、押しつけがましくないところがよかった。  とはいえ生まれ卑《いや》しき雑草は雑草、ほうっておけば馬蹄《ばてい》にでもある日偶然踏みにじられるが所詮《しょせん》の運命。もの珍しがって採集したり温室に飾ってチヤホヤしたり鉢植えにして大切に株分けしあるいは種をとって何代も育てたりするべきものではありはしない。幼い少女がみつけて摘《つ》んで押し花にして、書きかけの自分としては世界一大切なものである日記にでもはさむのがお似合い。どんな宝だと思っていても、何年もしないうちにカピカピに乾いて崩れてどこへともなく散ってゆく。  ただ……ウィリアムさまのこ性分からすると、どうせそんな花だからお戯《たわむ》れに摘んでみようか、思い切り乱して散らしてもかまうまいそれを愉しもう、などということではどうやらなさそうである。スティーブンスにはそれが悩みの種であった。  むしろ、いっそそうであってくれたほうがよほど有難いのだが。そうならそうでことの丸めようもある、もって行き場もある。沈黙でも従属でも、執事の財布で容易に贖《あがな》えよう。だが……  いやいや、いかな路傍《ろぼう》のスミレであろうとも、あのケリー・ストウナーが手元において面倒を見ているものなのだ。ただの下層|賤民《せんみん》、あるいは、いずれ女子刑務所がお似合いのあばずれ莫連女《ばくれんおんな》でありはすまい。めったなことをすれば問題になってしまう。騒がれて、世間の噂になってしまうやもしれぬ。そのへん、心してかかる必要があろう。  まだお手はついていないようだが、今後、どうなるか。どうしたものか。どうなるべきものでありうるのか。  そろそろ旦那さまにヒトコトぐらいはご報告しておいたほうが良いのだろうか、それとも、まだ、この自分の胸三寸に納めておいたほうがよかろうか。  悩むスティーブンスのところに、給仕《ページボーイ》が馳《は》せ参《さん》じる。淑女好みの贅沢品で有名なとある店のマネージャーが訪《おとず》れたという。なにかのまちがいではないかと驚いて応対すると、注文の品があがったから届けに来たと言われた。  スティーブンスは思わず片方の眉をあげたが、そこであえて判断を保留にすることにした。逆に、この石を投じてみることによって起こる波紋を見守ることで、今後の対応を検討することができるだろうとも思惑したのである。  うけとった訪問カードをたずさえて知らぬ顔で赴《おもむ》くと、ウィリアムもきょとんとした。 「ウイルバー&ホプキンス商会?」  中世の紋章のような大仰《おおぎょう》な意匠と金の縁取りのある立派なカードを何度かひっくりかえして眺め、肩をすくめ、いらないよ、と言わんばかりにすぐに差し戻す。 「グレイスだろう。僕は知らん。覚えがない」 「さようでございますか」スティーブンスは安堵《あんど》したが、「お嬢さまはあいにくのおでかけ中で」腰をかがめ、囁く。「注文の品とかいうものを携えてまいっておりますようで。なにかの間違いかと存じますが、そうであったとしても、これはまたとない縁やもしれません」 「縁?」 「W&Hは当節もっとも力ある天下の高級ブランドでございます」スティーブンスは悪事を囁くようにますます声を落とした。「わたくしめは、ゴテゴテの悪趣味と思いますが……どこがよろしいのかさっぱりわかりませんが……上流階級のお嬢さまがたの間では、こちらの店のリボンをガーターベルトに流用するのがひそかにハヤッているとか。あるいは、こちらの品というのはみな特殊な……なんともいえないブルーとオレンジのこともあろうに縞模様《しまもよう》の……箱にいれられて贈られるのですが、さる歌姫など、贔屓筋《ひいきすじ》に、今後はその箱にはいっているものしか要らないからそのつもりで、他のものを寄越しても受け取らないからと宣言豪語したとかなんとか」 「そりゃあすごい。商売人としては、まことに羨《うらや》ましい話だ」 「でございましょう!?」スティーブンスはギュッと結んだ手にさらに力をこめた。「わがジョーンズも、是非《ぜひ》とも、あやかりたいところでございます!」 「わかったよ」  ウィリアムは溜め息をつき、立ち上がった。 「そんなすごい店の客あしらいってやつを、この際ベンキョウさせてもらいますか」  高級店のつかいは客間に待っていた。 「このたびは格別のお引き立てをたまわり、欣喜雀躍《きんきじゃくじゃく》」  シェイクピア芝居の役者のような出《い》で立《た》ちと、セリフ回しである。 「さそくのことには御座いまするが、取り急ぎ、お品のほうご確認いただけますれば幸い」  うわさの極彩色青橙縞(なるほどこれが、とウィリアムは思った)の小函《こばこ》の、法王の衣装のようなびろうどの布の窪みにちんとおさまりかえっているのは、しろめ《ピューター》かと思いきや銀むくの、精緻《せいち》な飾り彫刻をほどこした名札ケースである。ぴかぴかに磨かれた表面に、あっけにとられたウィリアムのいつもより色の薄くなった瞳が映っていた。  やばいぞ、とウィリアムは思う。これは高い。  踏み倒せるだろうか? 「お確かめを」 「はぁ」  といわれても、なまじ触れて指紋《しもん》でもつけて損なってしまってはいけないのではないか。手袋をはめて扱ったほうがいいだろうかと逡巡《しゅんじゅん》していると、使いが、ご指定のお名をいれましてございますが、と、これは素早く携えてきた白手袋をはめて、小さな器をひっくりかえしてみせる。  刻印されていた文字は、  BELOVED,EMMA  ウィリアムの緑の瞳が金色に燃え上がった。勢いよくのけぞるあまりに小函を取り落としそうになった。  なにがなんだかわからない。  どういうことだかわからない。  脳貧血が起こりそうだ。 「まさか」使いはウィリアムの様子に、たじたじとした。こうもきっぱりと文字を刻んでしまった商品、売り損なってはたいへんだとでも思っているのに違いない。「綴《つづ》りが、あるいは、ご指定の書体を、間違いましたでしょうか!? で、でも、しかし、当方としてはあくまで誠実に……おお、ここにご依頼の詳細がございます、どうか、あらためてお確かめを!」  訪問カードと同じ仰々しい紋章と金の縁取りを施した契約書を、使いは差し出した。  なにをしているのか自分でもわからないうちに、ウィリアムはそれを受け取って目を通した。この手の書類は日頃眺め飽きている。細かな文字の全部をいちいち読んでいては手間ばかりかかる。どことどこを見ればたいがい用が足りるのか、無意識のうちに訓練された飛ばしかたで眺めていくうちに、不意にある部分にひっかかった。文書の最後、契約者の確認サインである。  水草のようにあるいは謎《なぞ》の暗号のように自由|奔放《ほんぽう》にのたくった文様の横に、奇妙にこどもっぽく大小ガタガタの書き取り初心者の稽古《けいこ》のようなアルファベットがならんでいる。それによると、読めないサインはどうやら、ハキム・アタワーリとあるらしい。 「……ハキムが?」  ウィリアムはつぶやいた。 「こういうことをしてもらっては困る!」  呼び出された書斎で、青橙縞の箱をあけられ、銀の小函をつきつけられて、異国の王子は無言のまま立ち尽くした。  興奮したウィリアム・ジョーンズは動物園の運動不足のクマのようにやたらせわしなくちょこまかと歩き回り、喋りながら振り回す手でそこらの小物を叩き落とし、膝やら脛《すね》やらをどこやらにぶつけては躓《つまず》いて、落ち着かないことこの上ない。 「まったくほんとうに驚いたよ。なんて鋭いんだ。おそれいった。炯眼《けいがん》だ。それにそのあたたかで濃《こま》やかな気遣い。きみの篤《あつ》い友情は嬉しい。ほんとうに嬉しいが、……ハキム、僕には僕のやりかたというものがある。タイミングというものも」 「…………」 「なんでも速攻で大胆でストレートなきみにしてみればうんざりするほど遠回りでオクテで焦《じ》れったいかも知れないが、ここはひとつ、静かに見守っていてもらいたい。なぁ、本気なんだ。戯《たわむ》れじゃない。わかってくれるよね? 頼む!」  ウィリアムはガバと正面に向き直ろうとして、どこかそのへんで偶然、肘の痛いところを打ったらしい。ウッと詰まり、涙目になり、ぶつけた肘をあいているほうでおさえて椅子にすわりこむ。 「と……とにかく……とりあえず……やめ……ておいてくれ……たのむから!」  褐色の肌の王子は随毛濃い闇色の瞳を眠そうな半眼にして、手の中の小函を見下ろし、掌の中でひっくりかえし、裏の名彫りを確認し、おもての細工を確認し、きわめてぴったりとした蓋をぱちんと開けては閉じ開けては閉じそのバネが小気味よく働くのをしばらく確認してから、まぁいいけどね、というように肩をすくめた。 「わかった」  ハキムは恐ろしく高価な銀の小函をウィリアム(まだ椅子で苦悶《くもん》している)に差し出した。 「とりあえず、これは、おまえが持ってろ」  うう、と食いしばった歯の間から笑いながら唸ったのが、ウィリアムのせいいっぱいの謝辞であった。  フロックコートに絹ネクタイ、トップハットに白いシャツ。紳士の服装を身にまとった若者は、ロンドンの街区にすんなりとけこんだ。少しまぶかに帽子の縁をおろしぎみにして建物の影を縫《ぬ》うようにすれば、この街の標準よりもだいぶ太陽に愛された肌色が人目に触れることもない。象にも乗らず、半裸の娘たちも連れず、花びらも撒《ま》かず、真紅の絨毯もサテンの衣装も極彩色の傘もやめれば、「お忍び」ってやつはあんがい簡単だな、と王子は思った。  誰も私に気づきやしない。  口笛を吹きながら軽くダンスのステップを踏みながら歩いていって、あっさり、とある家のアプローチに立つ。繁茂《はんも》するジャングルを好き勝手に歩いても帰り道を失わない方向感覚は、一度でも訪れたことのある場所をけっして違えることはないのだった。  約束はしていない。  前もって連絡はいれてなかった。  この家の女主人は淑女でないわけではないがたいして形式にこだわらない性分らしいと踏んでいたし、なに、もし都合が悪いようだったら出直せばいいだけのことなのである。  思い立ったら即座に行動してみるのが彼の規範《きはん》だったし、経験からすると、思い立つ時というのはかならずしも偶然ではなく、時が至った証拠、すなわち、たいがいの場合もっともその行動にふさわしい時がきたからこそ、本能的に自分で自分に合図をしているにほかならないのだった。  だから、軽いノックに答えてすぐに目的の眼鏡の女中《メイド》が現れても、ハキムは少しも驚かなかった。 「こんにちはエマさん」にっこり笑う。「突然の訪問を許してください」  異国の王子は脱いだ帽子を胸にあててニッと微笑んだ。 「お話ししたいことがあります。中にいれていただいてもいいですか?」  そんな服装をしていても、いや、しているからこそよりいっそう、その風貌は、お伽話《とぎばなし》めいてエキゾチックで魅力的であった。まして笑った時の磁力には、逆らいがたいものがある。 「どうぞ、おはいりください」  エマは進み出て、大きく開けた扉を尻と背中で押さえ、からだを小さくして客人を中に通した。  玄関の小間で帽子とコートを預かり、コート掛けにかけ、応接間に通す。スカートの裾をつまんでなるべく足音をたてぬよう台所へ行き、お茶をいれるための湯をコンロにかけ、またもどる。  客はズボンのポケットに両手をつっこんだ恰好で、炉棚に飾られたものを眺めていた。 「いま、お茶をいれています」  エマがすこし息をきらしながら言うと、振り向いて、うなずいた。 「きょうはジョーンズさんとごいっしょではないんですね」  それは半ば質問であったが、客はちょっと肩をそびやかしただけで返事をしなかった。英語があまり得意ではない、あるいは、女中ごときと会話するのは彼の身分からすると気がすすまないことなのかもしれないと思ったので、エマは追及はしなかった。 「そろそろおもどりになるはずですので、よろしかったら、どこでもおかけになってお待ちくださいませ」  わかった、というように目で合図しながら、客はすっと立ったままであった。そのほっそりと優雅なたたずまいは、ちょうど、水辺に独り凝《じ》っとして居る夕暮れ時の鷺《さぎ》のようだ、とエマは思った。  英国男性に比べると、肩も胸もそんなに分厚くないし、体毛も薄い。顔の肌なんかツルツルだ。そもそも骨が重そうではない。骨格はやや華奢《きゃしゃ》で、あぶらっ気が薄く、そばに寄るといつもなんともほのかなよい香りがする。いってみれば、少し中性的、いや、むしろ女性的なほどだ。  両性具有的。  東洋のかたの醸《かも》し出《だ》す雰囲気ってまるで不思議な魔法のよう。  あたためたポットに匙《さじ》で茶葉を移しながら、そういえば、このお茶というものももともとはあのかたの祖国から来た習慣なのだ、と思いついてしまい、すこし緊張が増した。じょうずに滝れられなかったら失礼だし、奥さまに恥をかかせてしまう。  もっと良い茶器、いちばん取って置きのそれを使っておけばよかっただろうか? このクッキーは湿気ていないだろうか?  とはいえ、やりなおすとまた時間がかかる。さらに待たせることになる。  えい、これで構わない、と決断して、お盆を運んだ。 「お待たせしました」  うながすと、客はようやく手近の椅子に腰をおろした。 「お口にあえばよいのですが」  小卓にカップ&ソーサーを一客置こうとしてスッと差し出した手を、浅黒い手に握られた。茶器をはずされ、指を握りしめられたまま、少し引っ張られて重心がずれ、体勢が崩れかけ、エマは動揺《どうよう》した。  盆を落としてしまわないようにするためには、とっさにそこらに預け置くしかなかった。ダンスの振り付けのように巧みにくるりとからだを回されて、軽く足ばらいをかけられ、気がつくと、ソファの、客人のすぐとなりの位置に座らされていた。まるで、ほとんどその腕の中に倒れこんだかのような具合であった。  客人の若き痩躯《そうく》は俊敏《しゅんびん》な神経と強勒《きょうじん》な筋肉でできており、高祖公孫の血筋はごく幼いころから盗人や人さらい、暗殺などの危機に備えることを必要とした。まさかそんなことをされるかもしれないと思いもしないで油断している女中《メイド》の身体を思うさま操るぐらいの体術は、とうぜん心得ているのであった。 「あ……あの……!」  あわてて立ち上がろうとするエマの膝に手をおいて、一見さりげなく弱く、しかしぜったいに立ち上がれない角度で押さえながら、まぁちょっと待ちたまえ、と客は静かに言った。 「ここにいろ。そうウロチョロするな」  間近に見ると怖いほど獣めいてそれも野生の美獣めいてきらめく漆黒の双眸《そうぼう》がエマを射抜いて釘付けにした。眉間のチャクラに栓をするべく施《ほどこ》した異国の宗教の徴《ビンディ》が第三の瞳となってさらにグイと突き刺さった。 「ここに座っていろ」  王子の声はびろうどの手触り。  ゆらめく官能の誘惑をエマは感じた。  間近に感じた男の体温とともにかすかに匂い立った数多《あまた》の香辛料……それは生まれてこのかた彼を作り出してきたすべてのものにまとわりついており、その細胞のひとつひとつにまで練り込まれていて、隠しようがなかった……の異国情緒《エギゾチシズム》は、不可思議のかなたの国の魔法の気配をまとって甘く、なんとも魅惑的である。あるいは若きマハラジャである彼の体臭には、麻薬や媚薬《びやく》の効果すらもあったのかもしれぬ。  もし彼女が無鉄砲な、あるいは若い女性としての本能や好奇心にもっと忠実な性分であったら、ここであっさり堕《お》ちていたかもしれない。  だが、エマはそうではなかった。  いたって真面目で不調法なほうであったから、これには面食らい、戸惑いをおぼえた。きっとからかわれているのだ、と少し怒ったほどである。  いくらジョーンズさんの仲良しでも、お戯れがすぎるわ! 「お放しください」もがいた。「行儀が悪いと、わたくしが奥さまに叱られますから」 「気にするな」ハキムは笑った。「そもそも、きみは誤解をしている。私はストウナー夫人に逢いに来たんじゃない。他ならぬきみに用があってきたんだ。話があるといっただろう。ちゃんと座って聞いて欲しい」 「わたくしに?」 「そうとも」  驚くエマを真正面に見据えると、ハキムは単刀直入に言った。 「ひとつ質問をする。正直に答えろ。……きみはウィリアムの恋人なのか?」 「え」  エマは絶句した。頬がかあっと紅潮するのがわかる。 「……そ……そんな……」  しどろもどろになる。目が泳ぐ。もじもじする。 「まさ……け、けして、そ、そういう……あの……」 「ふうん」  ハキムは呆れたようなつまらなそうな顔になって、絶好の獲物から手を離した。エマはあわててぴょんと飛びのく。肉食獣から凝視をはずされた仔鹿のように。 「なぁるほど」溜《た》め息《いき》をつき椅子の背にがっくりともたれかかる。手が顔を覆う。 「……ちぇ。まいったなあ」 「あの……アタワーリさま?」  エマは困っておろおろした。へたに近づくとまた捕らえられそうで怖いが、この場から立ち去って置き去りにしてしまうのはあまりといえばあまりに失礼だ。いったいどうすればいいのだろう。 「ハキムと呼べ」 「ハキムさま。お茶は、いかがでしょう」 「あー」  ハキムはだらりとからだを椅子に預けたまま、さっき手渡されかけてすぐに横に追いやっていた茶器をとりあげ、ぐびりと飲んだ。 「おっと。うまい」笑う。「なかなかいいよ。じょうずだな、エマ」 「ありがとうございます」エマはお辞儀をした。「奥さまが紅茶を好まれますから。本場のかたにはきっととてもかなわないのでしょうけれども」 「本場なんて」ハッ、とハキムは笑った。「インドじゃどこいっても屑茶しかねーよ。高級なほうから順番に、この国やヨーロッパに輸出しちまうからね。じょうりゅうかいきゅうのみなさまのために」  なにをいっていいかわからなくて、エマは黙った。ころやよし、とみて、立ち去りかけると、 「おっと」  ハキムは軽やかに身を起こし、鋭くまたエマの手を捕まえた。 「まだ行くな。座らなくてもいいから、せめてそのまま聞いてくれ」 「……」 「ウィリアムはいいやつだし、大切な友人だ。私はこんなだから、ともだちといえるやつがなかなかできなくて。敵や子分なら掃いて捨てるほどいるんだが」 「そんな」 「黙って聞け」  異国の王子は不意に怒ったような、癇癪を起こしたこどものような表情に顔をゆがめると、キュッと唇を噛んだ。 「だから泣かせたくない。裏切りたくもない」 「……」 「しかし、だ」握ったエマの手を頬に押し当てて、異国の王子は拗《す》ねたこどものようにふくれっ面になる。「出会ったばかりでまったくどうかと自分でも思うんだが、あんたを好きになっちまった。こればっかりはどうしようもない」  もがくエマの手を逃がすもんかとさらにギュッと掴みながら……まるで、迷子のこどもが知らないオトナを命綱にするようにしっかりと掴みながら、王子はブツクサ言った。 「おまえのことなんかなにも知らないのに、わかってないのに、どうかと思うだろう?だが、異性に惚れるのには理由なんていらない。なんか好みだ、こいつが欲しい、誰にも渡したくない、それは、ひとめでわかることであって、なぜそうなるのか説明なんかできない」 「………」 「立ってる時の雰囲気が好きだ。動きかたが好きだ。ゆっくり話す話しかたがいい。高すぎない声もいい。そして……なにより顔が好きだ」  エマの手が不意に暴れるのをやめた。  ハキムは怪訝《けげん》そうに目を眇《すが》め、もう一度、彼女をひっぱった。エマはこんどは素直にすとんと腰をおろした。  ハキムのすぐ隣に座って、そのままうなだれる。まるでみるみる萎《しお》れていく花のように。 「自分の顔がきらいなのか」  エマはこくん、とうなずいた。 「なぜ」 「……いろいろありましたから」  ハキムはおどけたように目を見張った。 「うん。それはそうだろう」 「え」 「それだけおまえは顔だちが良いのだ。ひとめにつかずにおかぬほど。それを恥じる必要などない。だが所詮は生まれつきの偶然だ。努力や研鑽《けんさん》の賜物《たまもの》ではない。誇っても利用してもかまわないが、あまりそればかり頼りにするのは下品だな」 「…………」 「そうか、苦しんだんだ」ハキムの指摘はいたって直截《ちょくせつ》だ。「身を守るのにずいぶん苦労をして、こんな目にあうぐらいならいっそオカメの激ブスだったほうがなんぼかマシだったのに良かったのにと何度も何度も思わされてきたってわけだ」  エマはぼうっとした顔をあげた。なんだか恥ずかしくなってきた。そんなふうにずけずけ言われると、ひどく自分勝手でくだらない悩みにとらわれていただけだったように聞こえる。 「……エマ、もし、おまえが望むなら」  肩に手をおかれて、エマはからだを堅くした。 「私には力がある。わかるだろう? そういう何もかもから、おまえを守ってやることができるぞ。完璧に。以後、ずっと。一生」  手に力がこもる。  いま、この手のほうに倒れこんでしまえば……その胸に抱かれてしまえば。  ありがとう。でも、すみません。  エマはそっと首を振り、ハキムの手が肩からすべり落ちるにまかせた。  あなたのお情けを受けるわけにはまいりません。 「……やつにも、できるだろう」  王子は小声で囁いた。 「やればできるだろう。だが、わからないぞ。あいつにはちょっと弱いところがある。そもそもあんたに、まともな告白のひとつもまだしてないだろ? そのへん、実に優柔不断だし、危機管理能力に欠けると思わないか? 坊ちゃん育ちのせいだか、おひとよしだからだかなんだか知らないが、……ツメが甘ぇんだよ。あのバカは。手抜かりだらけ、隙だらけだ。あんたを守るもなにも、自分を守ることさえちゃんとできるかどうか」  エマは目を逸らしたまま、うなずいた。不意に……自分でもそこにそんなものが溜まっていたとは知らなかったのだが……ころんと、涙が零《こぼ》れ落《お》ちた。 「そっか」  ハキムは笑った。  どこかが痛いような笑い。 「なんだ。そういうとこまで、好きなんだ」  やれやれ、まいったね!  畷り泣きをこらえるエマの肩をぽんぽーん、とひとつふたつ叩いて、客人は優雅に立ち上がり、歩き出した。  あわててエプロンで顔を拭いて追いかけてきたエマが玄関で追いつく。  自分でコートと帽子を取り戻した客人は、ニヤッとした。 「思いなおすなら、早めにしとけよ」  エマは合図を聞き分けた猟犬のように、ビタッと立ち止まって、赤くなった。  鏡を眺めて帽子をかぶり、ちょっと角度を整えて、 「いつでもいいからと言ってやりたいが、インドから迎えにきてやるのはさすがにたいへんだからさ」 「……いつごろまでいらっしゃるんですか、英国《こちら》に」 「そうだな」異国の王子はドアのノブに手をかけて、首をひねった。「象とか踊り子たちとかが、ホームシックになるまでかな」 [#改丁] [#ここから3字下げ] The Novel Emma story 4 " Call of the past "  第四話 過去の呼ぶ声 [#ここで字下げ終わり]  ことん……かつん。  ことん……とん……かつん。  ごくさりげなくはじまった、小さな演奏。規則的なような、不規則なような、予測がつくような、つかないような。見えない天使たちの楽団が気まぐれに演奏前の調律《チューニング》でもしているかのような。  ベルジャーにあたる、雨粒《あまつぶ》の音である。  ベルジャーというのは、文字通り鐘のようなかたちをした、ガラスでできたミニ温室だ。遅霜《おそじも》や低温に弱い花や野菜の株にひとつひとつ被《かぶ》せて使う。エマはそれを、よく育っているチシャやにんじんのいくつかに被せておいた。最近とんと食欲のない女主人の食卓に、せめて毎日、新鮮な野菜を供したかったから。  とん……か、つん。  透明な鐘ドームの尻に落ちた雨だれがガラスを鈍《にぶ》く打ち鳴らす。滑り落ちた水滴が花壇《かだん》の縁《ふち》かざりのテラコッタにあたる時にもう一度、すこし違う音色《ねいろ》を奏《かな》で響《ひび》かせる。  雨が降ってくるんだ、とエマは思った。  もうじき土砂降《どしゃぶ》りになるかもしれない。あとほんの少しだけ、もってくれればいいんだけど。そしたら、いまやりかけのこの畑シゴトが一段落するから。  今日は洗濯物も干してないし、濡れてこまるものを庭のどこかに出しっぱなしにもしていないはず。頭の中でリストアップして確認しながら、移植鏝《いしょくごて》を使う手をやや早める。  だが、知らずしらずのうちにすましたままだった耳に、とん、かつん、とつつ……リズムは思いがけずいきなり早まった。  エマは顔をあげた。黒い雨雲が頭上いっぱいに広がっている。もくもくと湧き出すように、さらに増えていく。 「急がなくちゃ」  泥だらけの手をザッとはらって、そこらに散らばったものを手あたり次第に集め、大急ぎで始末する。いま水びたしになったら美味しく食べられなくなってしまいそうな作物をいくつかひっこぬいて籠《かご》に盛って、裾をからげて屋内に飛び込んだ、と思う間もなく、涼しい風が吹き込み、ざぁっと音をたてて雨が落ちてきた。  土仕事で汚れた手をうらっかえしにして、頭頂部に落ちおでこを流れていこうとする雨を、袖をまくりあげた腕の素肌で無意識に拭《ぬぐ》いながら、ふう、とエマは溜め息をつく。  ふう、とウィリアムは溜め息をつく。  ガラスにいくつも亀甲《きっこう》模様に雨垂《あまだ》れのつたう窓の外、ジョーンズ邸の中庭では、象とインド人たちが謎の舞踏だか祭祀《さいし》だかを執《と》り行《おこな》っている。この雨が降り出したとたん、それははじまった。びしょ濡れになるのもかまわず、みんな自営テントから走り出て、鼓《つづみ》だの笛だの、奇妙な楽器を持ち出して鳴らし、風邪をひいた猫のようなめろめろと鼻にかかった声でわけのわからぬ異国の歌を歌い、たいまつをかかげ、香炉を振り、しゃんしゃん手拍子足拍子、順繰りに立ち上がってはひとさし舞うのである。なんだか象までご機嫌だ。  どうやらこの雨がよほど嬉しいらしい。  それにしても、肌寒くはないんだろうか、故国なら、雨があがればたちまち常夏《とこなつ》の強烈な陽差しが照るはずで、どんなに濡れても速攻で乾くだろうが。 「お湯とかタオルとか用意しなくていいだろうか」  ウィリアムが言うと、ハキムは、あーともうーともつかぬ声で答えた。  客間の椅子《いす》にどう見てもふつうではない座りかたをしている。右の肘掛《ひじか》けに頭を、左の肘掛けに尻をかすかに載せ、背中と上半身は、まるで手品のように、なにもない宙に浮いているかっこうだ。重力に拮抗《きっこう》する方向に高々と垂直に伸ばした左脚に右脚をからめているので、細い足首にやたら大きく無骨に見える西洋風の革靴をはいたままの足先がゆらゆらしているのがなんともいえずに珍妙である。しかも、そんなかっこうで、目の前には縦長にたたんだ新聞を構えて、たまにひっくりかえしたりめくったりするところを見ると、どうやら多少は読んでいるらしいのだが、その新聞がまた上下さかさまだったり、九十度ずれていたりするのである。ほんとか嘘《うそ》か、長年ヨガの修行を積んだ人間にはそれで充分読めるし、たまにはそうやって読むほうがむしろ脳の鍛練《たんれん》になるののだという。  見ているほうが胃がでんぐりがえりしそうである。  不真面目きわまりない。  さっき発された低いあー、も、うー、も、肯定《こうてい》なのか否定なのかさっぱりわからない。 「ハキム、きみんとこのひとたち、びしょ濡れなんだけど」  ウィリアムは辛抱強くもう一度訊ねた。 「このひどい雨の中で、何だかやたらにはしゃいでるよ。ねえ、何人か、泥んこの中にわざと倒れこんで泳いでるみたいな恰好している子までいるんだけど……いいのか?ほっといて。風邪ひかないか?」 「気にするな」ハキムは蛇がとぐろをほどくようにゆっくりとポーズを変え、こんどはうつ伏せた頭の上に海老反《えびぞ》って、そろえた両足をちょこんとのせた。「やつらは自分で自分のめんどうは見られる。きっとガンジスにでも沐浴《もくよく》しているつもりなんだろう。テムズ川は汚染がひどくてとてものことに泳げんからな」 「…………」  ウィリアムは黙った。それからつかつかと歩いていって、行者《ぎょうじゃ》のポーズを決めた友の手から畳まれた新聞を奪い取った。 「ねえ。きみ、確か、一週間で帰るとかっていってなかったっけ?」 「この唇がそのようなことに言及したことが果たしてあったのだろうか」 「言った。一週間なんてとっくに過ぎているぞ」 「ふむ」  ハキムはするすると身体をほどくと、ふつうに座っているかたちになった。 「そりゃ慣用句の問題だな」 「かんようく?」 「悠久の我等が民の時間感覚は」ハキムは合掌した。「君たちせっかちな英国人とはいささか違う。我々が『もう少し』といったら、それはおおよそ一年か二年するころにはたぶん、という意味で、『しばらく』といったらそれはたいがいの場合、だいたいひとの一生に匹敵するだけの時の流れを言う。英語にだってあるじゃないか、二三日《アフューデイズ》みたいな言い方が? あれは二日なのか三日なのか、それともそのどっちでもないのか、君たちだってけっしていつも厳密に使っているわけでは」 「……ああ、ああ、そうか!」ウィリアムはうるさそうに手をふって友を黙らせた。「ようするにまだ帰らないということだな」 「そう邪魔者扱いするな。思っていた以上に面白いことが多くてな」ハキムは肩をすくめた。「ロンドンは。とくにリトルメリルボーン方面とか」 「だ〜か〜ら〜(怒)」 「わかっている」いけしゃあしゃあと微笑《ほほえ》む。「余計なことはするな、だろ? しないって。してない。したこともない」 「うそつけ!」 「そうわめくな。単に、ともだちの少ない君の無二の親友として、オクテな君がこれからどうするのか心配で、楽しみで、ぜひとも成り行きを見守ってやりたいと思っているだけじゃないか。なぜそれをそう嫌がるかな」 「…………」 「正しいことをしているならば、なにも恥ずかしくなんかないだろう。それとも、なんだ。なにか、後ろめたいことでもあるのか?」 「…………」  ウィリアムは顔を赤くするとそこらにほうり出していた上着を肩にかけて、どすどすと大股に部屋をでていった。 「少しくらいはけしかけねーと」ハキムはひとというより猫のような角度で脚を曲げると、靴先で耳を掻いた。「焦《じ》れったくってしゃあないからなぁ」 「セブン、テンと」  口髭《くちひげ》の端《はし》っこのほうにパイプをくわえた男のヤニ色に染まった無骨《ぶこつ》な指がいかにも物なれた様子で軽く弾いて飛ばすと、スペードの10がくるりと半回転して、場にさらされた札のてっぺんにシュタッと納まった。テーブルを囲んで札を持った男たち、それを見守っているさらに数人の男たちの口から、おー、と、一様な、だが、聞きようによっては苦渋《くじゅう》とも非難とも感嘆ともとれるような声が漏れあふれる。 「よしか? ……ないな?」  ハンチングの陰からのぞく鋭い眼光でライバルたちを見回すと、パイプの男は口髭の端っこをかすかに持ち上げ(笑ったらしい)片手でコインをかき集めた。 「いただき」 「うー、ついてんなあ」 「さっきっからおめーばっかじゃねーか」 「少しは遠慮しろよ、アル」 「ツキじゃねぇ。実力だ実力」  アルと呼ばれた男はみんなが投げ捨てたものを集めて、全部のカードをシャッフルする。  雨の街路に面したパブ『ルース&ベア』の、外と中のどっちともつかない軒下《のきした》のテーブルだ。中年から老年にかけてのそこそこ身綺麗な男性ばかり、コーヒーやエールを飲みながら、ひまをつぶしたり、ほんとうはひまでもない時間までもつぶしたりしている。さあさあと止む気配もなく雨は降り、音と水のカーテンを降ろして、世間からこの店を隔絶《かくぜつ》しているかのようだった。  あんた仕事はいいのかよ、と憎まれ口をきかれて、かまやしねえよ、俺がここにいんのだぁれも知らねーんだから、と低く渋い良い声で返事をしながら、アルは素早く手札をくばり、場の札を晒《さら》す。 「またまた黒だな。とくりゃ……ほれ。これでどうだ」 「げ」 「とっとっと」 「ハナからそれ? キッついぜよ」  ぶつくさいいながら、順繰りに札を投げ、めくり、手の中に隠すようにして広げ、眉《まゆ》を段違いにして眺める男たち。  火のついていないパイプを唇《くちびる》の右端から左端に歯と唇だけでゆっくりと移動させながら、アルはカードを眺めた。素人臭《しろうとくさ》くひくたびにいちいちスートごと数順に揃《そろ》えなおしたりしない。新しくいまひいてきたのはそのまま右端において、ジロッと一瞥《いちべつ》、瞬間的に判断して、いらないもんを抜いて捨てる。即座に左手をひらめかせて扇《おうぎ》にひらいているかたちを整えるから、いま捨てたカードがどこから抜かれたものなのか、さっきまでどこにあったやつなのか、よほど注意深く見守っていても、戦い手たちにはなかなかわからない。 「キングこい、キングこい……エイッ! うわぁ」  希望をいいながらめくって、いちいち喜怒哀楽《きどあいらく》をあらわすようなアホに、そうそう負けるわけがない。  椅子にかけなおして肩をゆすると、カーディガンのポケットにたまりつつあるコインがちゃらっと鳴った。そろそろ潮時《しおどき》かな。このひと勝負がすんだら、ちっと座をはずして飯でも食うか。  アルがそう思ったのをまるで見越したかのように、篠《しの》つく雨幕を斬り欠くようにして、顔の汚れた小僧が走ってきた。痩《や》せたからだにはまだ大きすぎる黒ジャケット、ニッカボッカ、小生意気なハンチング。まるで�ベイカー街イレギュラーズ�の一員のような小僧である。 「アルってひとはいる?」雨の中に足を踏ん張りつったって、小僧が叫ぶ。 「おれだ」 「ストウナー夫人から救難呼び出しだよ」小僧は袖《そで》でグイと顔をぬぐい(スス汚れらしいのが余計にひろがる)「雨樋《あまどい》がぶっこわれちまって家じゅう水浸《みずびた》しの床上大浸水だって。このまんまじゃ夜には雨ガエルになっちゃうってさ!」  アルのパイプが意気消沈を示すかのように、だらりと垂れた。  ひゅうひゅう、と誰かが軽く口笛を吹く。 「例の未亡人か」 「お安くねぇの」 「バ〜カ。んなんじゃねぇ」  小僧に、手の中に握りこんだコインを種類も確かめず駄賃《だちん》に投げてやりながら、アルはガタガタと椅子を鳴らして立ち上がり、背後で見物をきめこんでいた男に手札をそのまま渡して、肩をぽんとたたき、いれかわる。 「ごついツキのある席だ。がんばれよ」  壁づたいに滲《し》みた水が羽目板の緩い部分から溢れて漏れ出し、二階と三階は嵐の中の船室もどきにジケジケした。  エマは漏れをさがしては不要な布をあてがい、モップとバケツを提《さ》げてせっせと家じゅうを走り回った。どこかにまだ見逃している雨漏りがあるのではないかと、鵜《う》の目|鷹《たか》の目で。通りすがりに、あてがった布がもしびしょびしょになっていれば、とりかえて、新しいものをまたあてがう。  漏れは明らかに上からきている。この分では最上階の自分の居室がもっともひどいのではないかと予測はついたが、目配《めくば》りをしているヒマはなかった。濡らして傷めてはいけない家具や小物は二・三階にいくらでもあった。ケリー・ストウナーが五十数年の人生の間に少しずつ蓄《たくわ》えたあれこれだ。水がかかりそうになっていれば、それら大事な宝物を次々に運び出して無事なほうに積み上げたり、箱などにしまって避難させたりしなければならなかった。  女主人の什器《じゅうき》に比べれば、エマ自身に所属するものなど濡れても干せばよいものばかり、女中《メイド》の衣装と蝋燭《ろうそく》などの消耗品は厳密にいえばそもそも彼女自身のものではなく、あくまで勤務のために貸与されているものにすぎない。  ほんとうにわたしのもので、大事なものといったら、せいぜい、あれ、あのハンカチーフだけ……  その日果たして何回めにあたるやら、湿って重たいスカートの裾を片手でからげ、転ばないように手すりにつかまって、湿ってじとじとする階段を大股に足早に登りながら、ふと、思いあたった。  衣装|箪笥《だんす》の上のほうのひきだしにしまってある、ウィリアム・ジョーンズからの贈り物。あの美しい刺繍《ししゅう》をほどこされた一枚だけは、できれば濡れてなど欲しくない。損なわれて欲しくなかった。  が……  部屋はあまりにも遠く、この階段のはるか上のほうにあり、屋根や、壊れたらしい雨樋からすぐ近くだったから、いってみればたぶん、なにもかもがびしょ濡れになっているだろう。そこに足をふみこんだ自分も、どろどろになってしまうかもしれない。惨状を見れば、とりあえずなんとかしたくなってしまうかもしれない。だから、  がまん。  エマは唇をひきしめ、女主人の寝室の濡れて重くなった絨毯《じゅうたん》にしゃがみこんだ。  どうせ、もうまにあわない。  じぶんのことは、あとまわし。  それより、このひどい天気と、そのせいで湿気がこもってしまうだろう家で、奥さまの具合がますますわるくならなければいいけれど。  アルが雨をついて122番地に駆けつけた頃には、雨足の強さは最悪の段階を過ぎていた。が、降っている間はどうせ屋根にあがりようもない。  若い女中《メイド》を手伝って重たく濡れた布のたぐいをはがして集め、汚れ水でいっぱいのバケツを何杯も捨てに登りおりしているうちに、さしも頑健な男の膝《ひざ》も軋《きし》みはじめた。  そもそももうガムシャラに力仕事をするような年齢ではないのだ。ケリーは勘違いをしているか、あるいはわざと知らんぷりをしているようだが。現実を見ていない、あるいは、見ないようにしているのか。  ダグラス・ストウナーとふたり、なにかといえば徹夜でバカ騒ぎをした日々。若さというエネルギーの奔流《ほんりゅう》に突き動かされ、はちきれんばかりの活力をいつどこにどう発散したものかに迷っていた日々。  あれはもう四半世紀も前のことになってしまった。  溜め息まじりに窓外《そうがい》を見ると、知らぬ間に小やみになっている。  アルは女中部屋の裏から、まだ濡れている屋根にあがった。急|勾配《こうばい》に足をすべらせないように気をつけながら、ぐるりと見てあるいた。  なるほど雨樋が一ヶ所、とりつけ位置から大きくずれて歪《ゆが》んでいる。枯れ葉と泥と鳥の羽毛と、なんだかわけのわからないものが詰まって水はけが悪くなっているところへの急な大雨で、衝撃を受け止め損ねたらしい。  ぐらぐらの支柱をいくつか外し、すっかり錆《さ》びてバカになっているネジくぎを取っ払った。腕をつっこんで詰まっているものをひっぱがし、投げ捨てる。窓から顔を出した女中にいいつけて、トンカチと釘をもってこさせ、とりあえずもとあったのに近いはずの位置にとめつけてみたが、咄嵯《とっさ》にできることはあくまで応急処置でしかない。 「ほんものの職人を呼ぶんだな」  二階の女主人の居室に戻ったアルは、汚れを拭《ふ》きふきそう言った。 「すっかり歪んじまってるし。打ち直してなんとかもう一度使うようにしても、たいして長持ちはしない。いっそ思い切ってぐるりを全取っ替えしたほうがはやいぜ」 「とんでもない。そんな物入りな」  ケリー・ストウナーは言下に否定した。 「どうせオンボロ屋敷なのよ。古くてあちこちガタもきてるでしょうよ。けど、このあたしよりか長持ちしてもらってもしょうがないじゃないの」  雑駁《ざつばく》な言い方に、ふと本音の弱気がにじんだ。  アルは思わず顔をあげて旧友の未亡人の顔を眺めようとしたが、ケリーはすっと目を逸らし、女中《メイド》がかがみこんでいる壁のほうにいってしまった。 「どお?」 「ひどいですね。このあたりは、はがすしかないかもしれません」エマはぼこぼこに浮いて、一部裂け目まで生じてしまった壁紙を指でたどりながら、首を振った。「一度よく乾かして……盛り上がったところは針でついて、中の空気をだすようにしてみますけど……このままじゃあ、上から新しいのを張ることもできませんし」 「困ったわねえ」ケリーは暗い顔をした。「ただのシミぐらいなら、見て見ないふりをしてもいいけど……黴《かび》は不衛生よね。ムシやネズミを呼ぶものねぇ」 「不衛生っていや」と、アル。「てっぺんの、ありゃあ、あんたのベッドだろう、かなり酷《ひど》いことになっていたぜ。いっぺん、運びおろすか?」  エマは、やっぱりそうでしたか、とうなだれたが、ケリーはびっくりして目を丸くした。 「すごいって、なにが? どう?」 「雨漏りの真下だったからな、ぐしょぐしょに濡れちまって。ありゃ、いっぺん、ぜんぶバラして、天気のいい日に、詰め物からなにからよく干さないと。この子も病気になるかもしれないが、そもそも寝台の材木が腐って折れるぜ」 「ああ、もう!」  ケリーは苛立《いらだ》たしげに椅子にかけた。 「困ったわねえ。お金のかかることばっかり。なんですぐに動かしておかなかったの、エマ! そうなるって、わかったでしょう、あんたなら」  エマはうなだれて、すみません、と言った。 「そうじゃなくて! あー。わたしが悪いのね。他の、どうでもいいような用事をいくつも頼んだから。自分の部屋のことがもし気になってたとしても、二の次三の次にするしかなかったんだわ」ケリーは肘掛けについた腕に頭をもたせかけて、うなった。「今日は、台所に寝なさい」 「え……あの」 「床は堅いかもしれないけど、とりあえず乾いてるし、炉のそばなら一晩中あったかいでしょ。ふとんやクッションをたくさん持ってくれば、寝られるでしょ。ああ、あんたの濡れたのじゃなくて、客室の使っていいから、運んでおきなさい。ちょっと古いニオイがするかもしれないけど」 「はい……」 「アル、手伝ってやって」ケリー・ストウナーは両手を肘掛けにつっぱって反動をつけるようにして立ち上がった。「まったくもう、なんだって雨なんて降るのかしらね!」 「♪灰色猫のガランティーヌ、今日もプンスカご立腹」  掛け物をみなはがし、台だけになったベッドを、窓からなるべく離して置き直しながら、アルが歌った。 「♪癇癪《かんしゃく》起こしておっぽっぽ、ピンとおっ立て、ふくらます。   そこヘジョンジーが通りすがり、おっとと、こいつは瓶《びん》ブラシ、   ちょうどいいのが欲しかった、うっかりとんまに勘違い。   ギュッとつかんでひっぱったぁ、ひっぱった」 「♪にゃあにゃあにゃあ! なにするんだにゃあ!   ぎゃあぎゃあぎゃあ! やめてくれぎゃあ!」  エマも思わず声をあわせてしまう。  サビの楽しいところをへんな作り声で歌い終わったアルが、ニヤリと笑った。 「似てねぇか、ガランティーヌ」 「はい?」 「ケリーのやつにさ。なにかっつーとズケズケ言うだろ。みょーにえらそーに。すぐに尻尾《しっぽ》、瓶ブラシにする猫みたいに。……誰の許可を得て降りやがったって、雨にだって怒るしよ」  エマは真面目《まじめ》な表情をたもつのに苦労した。 「面白いからちょっとからかうと、たちまち牙《きば》むいて、爪《つめ》たてて、ファーッ! だ。ダグもさぞかし苦労しただろう」  しめって重たい寝具を両手でたぐりよせてなんとか一度に運べるように抱え直そうとしていたエマは、ふっと顔をあげた。 「旦那さまをご存知なんですか」 「近所だったからな」アルはエマの手のナカミを半分がたひきうけて、階段をおりだした。「ガキの頃からつるんでて、よく、コベントガーデンあたりの街角でたのしんだものさ。そこぬけの笑い顔で、そこらのして歩いて、屋台からりんごかっぱらったりな。……なんだ、ケリーはしゃべってないのか? あんなこもりきりの婆ァにゃあ、昔のことぐらいしか喋ることはないだろうに」 「おっしゃいません」あとに続いておりながら、エマは言った。「旦那さまのことは、なにも。亡くなった、ということしか」 「ふーん」  廊下《ろうか》のどんつまりに濡れたふとんをほうりだしながら、アルは言った。 「ま、それでいいのかもな。あまり懐《なつ》かしがっていつまでも話題にしていると、幽霊《ゆうれい》が出るっていうから。ケリーは幽霊になんざ逢いたくないんだろう」  エマはしばらく無言で毛布の穴あきを撫でていたが、アルがポケットからパイプを出してくわえる頃、ぽつりと、ひとりごとのように言った。 「旦那さまは……奥さまとも、仲良しでいらしたんでしょうか」 「あ?」 「す、すみません」エマは頬を赤くした。「コベントガーデンで、良いおともだちだったとおっしゃったので……そういえば、奥さまは旦那さまと、どちらでお知り合いになられたのかな、と」 「ふつうに親の決めた相手だろう。ちょいと手紙をやりとりして、出会って三回めにゃもう結婚式だったんじゃねーか?」  アルがまたスタスタと階段を登りはじめたので、エマも裾をからげてついていく。 「……そういうものなんですか」 「みんなそうさ」 「そうとは思いませんでした」エマはアルのズボンの裾の泥はねを眺めていた。「あの奥さまが……親とはいえ……結婚相手を……一生の大切を、誰か他のひとの決めたままになさったなんて」 「ふん。たしかにみょーだな。ケリーは気強ぇから」泥はねが遠くなり、また近くなり、また遠くなる。「すなおに親の言うことをきくようには見えねぇな。が、あの頃にゃあ、それがあたりまえで、他のやりかたがあるなんて俺らの誰もぜんぜん思ってもみなかったな。いまだって、そうだろう。よほどの変人じゃなきゃ、親だのえらいさんだのが決めたことにゃあ逆らえねぇ。黙って従ってりゃあラクチンなのに、いちいち突っかかってたんじゃあ、しんどいからなぁ」 「…………」 「そうか」泥はねが一瞬立ち止まる。「だから、ガランティーヌはいつもご立腹で、しょっちゅう尻尾が瓶ブラシなのかもな」  エマが黙って考えこんでいると、アルがいきなり振り向いて、ファーッ! と癇癪持ちの猫の真似をしてみせた。  そのとたん、 「なにバカやってんの」  当のケリー・ストウナーが籠を片手に戸口から姿をあらわす。 「エマは生《き》真面目で、身持ちが堅い娘なんですからね。へんなこと教えないでちょうだい」 「あー」アルはハンチングをかぶりなおした。「わぁってるよ」 「そこの部屋の角のテーブルも動かしておいてくれる? 壁がダメっぽいから」 「あいよ」 「ちょっと下にいるから」女主人はエマに軽く言い置いて、階段を降りだした。  と。  あっ、と小さな声がし、すぐに、ひどい音と震動が響いた。  湿気った階段に足を踏み外した女主人が、滑って落ちてしまったのだった。  左の足首のあたりがみるみる腫《は》れ上《あ》がった。編み上げ靴はすばやく脱がしたからまだよかったが、締めつけて血行をさまたげる靴下は、切り裂かねば肌から外すことができないほどだった。腰と脇腹も打撲《だぼく》したらしい。さわると、あるいはからだを伸ばそうとすると、顔をしかめて痛がる。  お医者に診察を頼もうといったが、女主人は、面倒くさいからいらない、と言った。 「どうせただの打ち身と捻挫《ねんざ》よ。もしか骨折だとしてもちょっとズレたかヒビがはいったぐらい。こんなの治療のしようもない。せいぜい、湿布《しっぷ》しておとなしく寝てなさいって言われるだけ」やれやれと溜め息をつく。「やっちゃったわねえ」 「ざぁあねぇな」  アルは暖炉の燃えさしから火をとってパイプをつけた。 「ほんのちょっとつまずいただけなのに」ケリーは悔しがった。 「だからさ。もう若くねぇんだって」 「そうねぇ。ちゃんと手すりに手をかけていれば安全だったのに、スカートが重たいし、ちょっと物を運んでいたものだから……ああ、そうだわ、エマ、撒《ま》いちゃったもの、頼める?」 「片づけてまいります」  女中が去った。  老いた男女の間に、なんともいえない沈黙が落ちる。アルが、ゆっくりと燻らせるパイプの煙が、空費される時そのもののようにふわふわと漂っては薄れて消えていく。 「ねこ」  と、不意に、ケリーが言った。 「さっき猫の真似してたでしょう」 「ああ」 「どきっとしたわ。ダグもよくしたから」  アルが息を吸い込むと、パイプの火床でたばこが赤く明るく燃えた。 「あのひとは、時々、|ねこちゃん《キティ》って呼んだわ」ケリーの薄いもうほとんど色のない唇がかすかに引《ひ》き攣《つ》れたように笑う。「わたしのこと、そんなふうに言うひとなんて、他にいなかった」 「のろけか?」  ケリーは黙った。  とんとんとんとん、と足音がして、エマが降りてきた。 「奥さま」エプロンになにかまとめ持っている。 「なに?」 「これ、ネックレスですよね。見つかるかぎり、だいたいは集めたつもりなんですけど」  キャラコの布ごしに女中の手の窪みにおさめられていたのは、古い装飾品だった。ビーズと黒玉《ジェット》の古風な首飾り。落とした衝撃で糸が解《ほど》けたらしく、ほとんどバラバラになってしまっている。  見つめるケリーの、まつげも白い瞳がかすかに眇《すが》められる。  それは、夫が……いましも話題にしていた亡きダグラスが……誕生日にと贈ってくれた品だった。派手で流行の先端をいくような飾りではなかったが、ケリーの白い長い頸《くび》にはよく似合った。それをすると、古風な女王のように見える、と自分でも思っていた。  夫婦ではじめていっしょに記念の写真を撮ろうという日、新婚の娘にしては地味すぎるのではないかとみなに言われるが自分ではいちばん好きだったハッカ色のドレスの襟元を飾ったのも、その首飾りだった。  大切なものだから、これだけはエマにまかせず自分で別の場所にしまおうと、なまじ持っていた時に転んでしまったのが運命のようだ。 「……あらまぁ……」痛みをこめて、ケリーは言った。「もうずいぶん古いものだから、糸がダメになっていたんでしょうねぇ……」 「つなげてみましょうか」エマがかがみこむ。「元のとおりになるかどうかはわかりませんが」 「…………」  ケリーは鼻腔から息を吸い込み、いいのよ、というように頭を振った。 「そのままにしておいて。どうせもうしないものだし」  口にだしてみると、ズキリとした。じゅうじゅうわかっていたはずのことなのに。  そう。  そんな地味なネックレスすら、もうしない。だってわたしにはけっして似合わないから。  頸筋や鎖骨《さこつ》のあたりの素肌はくしゃくしゃの皺《しわ》だらけ、シミだらけで、とても、ひとさまにお見せできるようなものではない。襟がぴったりとしていて高く詰まったかたちの服しかもう着ない。  この家が雨漏りのひどいオンボロであるように、わたしももう。 「厄日《やくび》だったな」  言い置いてアルがでていくのも、上《うわ》の空《そら》で見送った。 [#ここから3字下げ]  まだなの。  そう焦れるなよ。  ずいぶん時間がかかるのね。  まぁまぁ。そう苛立たずに。まったくおまえはせっかちだなあ。じっとしてないとだめなんだよ。  つらいわ。ずっとこうやって、ただただバカみたいに黙っているなんて。すごく退屈。それに……なんだか屈辱《くつじょく》的!  しかたがないだろ。こういうもんなんだ。みんなこのぐらいがまんする。あと  ほんのちょっとの辛抱《しんぼう》だ。  ほら、もうすぐ。 [#ここから4字下げ]  そうすれば、  この一瞬は現実から切り取られて永遠に残る。  銀の上に定着する。 [#ここで字下げ終わり]  ……奥さま?  そっと声をかけられて目をあけて、ああ、眠っていたんだ、夢をみていたのだとわかった。  懐《なつか》かしいひとがすぐそこにいた気配《けはい》がまだ漂《ただよ》っているのに。  もう長いこと逢っていなかったことなど超越して、リアルに感じられたのに。  それは夢で、儚《はかな》い夢で、もう現実の、刻一刻と過ぎて流れていく時間の渦《うず》に押し流され掻き消されておぼろにわからなくなっていく。  だが、  たぶんもうすぐ、自分はその夢のほうに呼ばれていくのだ、とケリーは思う。  亡きひとのいるほうの世界に、近づいていくのだ。 「湿布をお取り替えします」  オットマ|ン《※》[#オットマン/フットスツール(足のせ用の補助椅子)。18世紀にオスマントルコからイギリスへ伝わったといわれる。]にのせた足のほうにしゃがみこむ女中の、いたいけなほど若い横顔。  ケリーは、と胸をつかれた。 「ねぇ……エマ……ジョーンズの坊っちゃまのことだけど」  女中は一瞬手をとめ、ごくりと喉《のど》を動かした。  やっぱり、とケリーは思う。 「どうなの?」  赤くなる。ほんの少しだけ、彼女はうなずいたのだろうか? 「ああいう子だから」椅子の上で身じろぎ。「心配はないと思うけど……世間にはよくあると聞くからね。なまじきれいな顔をしたおぼこな娘が、奉公にあがった上流階級《ジェントリ》の若さまのお手つきになって捨てられて、とか」  エマの湿布をほどく手つきが、せわしなくなる。 「好き、なの?」  湿布がはがれ、遠ざけられる。新しい湿布を、エマは自分の胸にあててすこしあたためてから、女主人の肌にあてがった。それでも、それはヒヤリとしたので、ケリーはすこしだけ足をひっこめる。 「……不思議なかたです……」  ひとりごとのように、ふと、エマが言う。 「ああいうご身分で境遇でいらっしゃるのに、なんだか……ときどき……わたしが女中《メイド》だということを、まるで意識なさってないように見えます」 「確かに」ケリーは重々しく息をついた。「なにかに夢中になるっていうと、現実がどーでもよくなるっていうか、まるきり見えなくなるところはあったわね、こどもの頃から」 「……男性は、よく、イエス・ノーをお尋ねになります。……どのぐらい可能性があるかとか、……誰と自分を比べたらどっちを取るとか……」 「ふん。なるほどね。男ってガキで単純だから、確かにそういうところはあるかもしれない。釣れるアテがまるでないとわかっているところにわざわざ釣り糸を垂らしてみるのはバカみたいだし、時間の無駄だと思うのよね」 「ジョーンズさんは」エマは包帯をじょうずに巻いた。「ちがいます。どこまでもお歩きになって……胸に浮かぶことをそのまま口になさいます。空が青いですねとか、風は春みたいですね、とか……なんだか、とてもとても楽しそうにおっしゃるのです」 「ふん」  ケリーは両手を肘掛けに預けて、背中の力を抜いた。  魚が食べたいなら魚屋でいいのを選んで買えばいい。わざわざ出掛けていって釣り糸を垂れるのは、みずから釣り糸を垂れることそのものが楽しいからだ。準備をして、よく考えて、これならイケる、これでたぶんいいのが釣れるはずだと思うしかけを施《ほどこ》して、あとは運を天になかば任せながら、ぼうっと眺める空の青さや肌に感じる風がこの上もなく楽しいからだ。  そういう特別の空や風は、釣りという、贅沢《ぜいたく》な時間の無駄《むだ》をしている時にしかけっして味わえないものだからだ。  恋という、恵まれた暇人の贅沢品に平気でひたることができるような特別の時間にしか、味わえないものだからだ。  だとすれば……  気をつけろ、などと、言うだけ野暮《やぼ》か。  どちらも望んで深みにはまるわけでもなかろうが、それが罠《わな》なら定めなら、黙って嵌《は》まるしかないだろう。  まったく……なんという若さか!  そう、わたしはオンボロでも、この子たちはまだまだこれからなのだ。  ちゃんと家を修繕《しゅうぜん》しようか、とケリーは思った。蓄《たくわ》えが減ってしまうとしても……この世はわたしが死んでもその瞬間に終わりになるわけではないのだから。  ──三日ほど後……  内庭に干された湿ったものがきちんと乾いては取り込まれ、ケリーの足首の腫れが引き、雨樋業者やら壁紙張りの内装屋やらがやたらに出入りして、122番地の家がいつになくざわざわと妙に落ち着かない中、  ケリーが居間で本を読んでいると、エマがやってきた。 「奥さま、いま、よろしいですか?」 「なに」 「ちょっとご覧いただきたいものが……」  さしだされた紙箱に、ケリーは見覚えがなかった。先日の雨漏りにやられたか少し端っこのほうにシミがついて歪《ゆが》んでいるが、どこぞの店の高価そうな品をおさめてあっただろうような箱であった。実のところ、それはウィリアム・ジョーンズがエマに買ってやったレースのハンカチの箱だったのだが。  箱の中に、首飾りがあった。  ほぼ、記憶のとおりに、つなぎあわされたものが。 「どうしたの」思わず強い口調《くちょう》になってしまった。「元通りだわ。どうしてこんなことができたの!」 「お写真をみつけて」エマは写真たてをさしだした。「もしや、ここに映っているお品なのではないかと思って……並べなおしてみたんです」  それは、もちろん、あの写真だ。  若き日の、ありし日の夫と……  頸もデコルテも、隠す必要のなかった年頃の。むしろ、みせびらかし、誇り、飾りたてたかった年頃の。  写真に写されるわずかの時間もじっと大人しくなにもしないでいることが苦痛だった、若くて、みずみずしくて、エネルギーがはちきれんばかりの。 「このかたが、旦那さまなんですよね」  女主人のひりひりするような想いを知らず、エマは微笑んだ。 「とってもハンサムさんだったんですね。優しそうなお顔で」 「そう。これがダグラスよ」ケリーは短く言った。あまり喋ると、声が震えてしまいそうだったから。「生きてた頃の。わたしの夫」  指でたどる。  まぁなんて若いのだろう! ふたりとも。  まぁなんて無防備で生意気で能天気だったのだろう。  時が流《なが》れ逝《ゆ》くことなど知らなかった。自分たちがだんだん年を取ったり、突然の事故や病気で運命が変転したりやがては死んでいくのがあたりまえなのだということを、まだまるで、まったく考えていなかった。  今日の次には今日とあまり代わりばえのしない明日が来て、明日の次には明後日《あさって》が来て、そうやって一年たとうと二年たとうと、十年たとうと、夫婦は夫婦だと思っていた。主が認めて結びたもうたふたりを分かつことは誰にもできないのだから。  まぁ、まぁ、なんて幸福そうなのだろう……。 「どこか直すところ、ありますか?」  エマが訊ねたので、ケリーはハッとした。  直すところ。  やり直すところ。  あの頃のこのふたりに、もしも時を越えて伝えられるなら、言ってやりたい。  生きろ[#「生きろ」に傍点]、いまを大切に、ともあれ、せいいっぱい生きるのだ、と。  思っているよりも早くあっけなく人生は過ぎ去る。ましてふたりがそうしてふたりで幸福そうにしていられる時は長くない。それは貴重な、後に振り返ってわすれ難い思い出になる一刻なのだ。  特にケリー。若き日のケリー。  たかが写真の一葉を定着させるだけの間をも、大人しくじっとしていられなかった、せっかちのケリー。  あわてるな。急ぎすぎるな。腰を据《す》えて味わえ。その時を。その、たった一度の、かけがえのない時を。  おまえは賢くて真面目だから、つねに先へ先へと計画をたてたがる。なんでもうまくやろうとして、ともすると心を煩《わずら》わせては苛立っていた。もっと合理的に、もっとテキパキと、もっと短期間にたくさんのことを成し遂げたくて、ジタバタしてばかり。  だが、  人生は、そうやって必死に狙って目論《もくろ》んで企んだことの隣に、あるいはちょっと脇に、いつのまにやら生ずるもの。おのずと生まれて積み重なっていくもの。まさかと思うそのまさかを点で繋いでなりたっていくもの。  だから……  時には、時間の無駄をするがいい。  天気のいい川辺に静かに座って釣り糸を垂れ、空を見あげよ、風を嗅《か》げ。もしその時恋しいひとがいるなら、そのひとを伴って。めぐりあえたひとの肩をそっと抱き寄せて。  たった一度のいのちに、偶然にあたえられる恵みのすべて、災難のすべてを、きちんと受け止め、味わい、感謝せよ。  うんとうんとあとになってから、ここからこの場所からもう一度やり直せたらと、後悔なんかしないように。 「……奥さま? だいじょうぶですか? どこか痛みますか?」 「ああ、いえ。ごめんなさい」ケリーは頭をふって気を取り直した。「ないわ。これで充分。ほんとうにこのとおりよ。どうもありがとう」 「いえ……良かったです」  エマは頬を紅潮させて、首飾りをひきとった。 「さしでがましいかもしれないと思ったんですけど……これも、お写真も、お部屋に戻しておきますね」 「そうして」 「失礼します」  辞去する女中の背中を眺める。  神よ。どうか、彼女に情けを。試練ではなく幸福を。涙ではなく微笑みを。  あんなにあんなにいい子なんですから。どうか、できるだけ暖かく、守ってやってください……。  歯がゆかった。  足がへんだった。  痛くはなかった。感覚がなかったのだ。その無感覚がむしろ恐ろしかった。  ただの麻痺《まひ》ならまだいいが、壊死《えし》だとするとことは相当に厄介だと、ケリーは知っていた。ここからはじまる身体の不調あるいは不随《ふずい》が、思っていたよりもずっと早く自分を亡き夫の元に連れ去ろうとしているのではないかと、なまじ賢く聡くなにかと知識豊富なこの女性はこの時すでにうっすら予測していたのであった。 [#改丁] [#ここから3字下げ] The Novel Emma story 5 " Two different worlds "  第五話 ふたつの世界 [#ここで字下げ終わり]  四月の雨が長く鬱陶《うっとう》しい冬の間中土埃《つちぼこり》をためこんでいた石畳《いしだたみ》をざっくりと洗い流し、テムズ川の土手に青草が萌《も》えだすと、ロンドンは花でいっぱいになる。  家々の窓辺や店舗、街角を、色とりどりの可憐《かれん》な春の草花が彩《いろど》ると同時に、明るい陽差《ひざ》しと暖かさ爽《さわ》やかな風などに誘われて、春の気分に解き放たれた女たち娘たちが、思い思いの装いをこらして外出をはじめるからである。  できるかぎり素肌を晒《さら》さぬことに意地をかけているようなヴィクトリア朝の抑圧の強い衣装でも、華やいだ心に呼応する明るい色合いや風合いまでは規制しきれない。うら若い乙女の小さななんの悪事も働いたこともない手をも酷《むご》く覆い隠さずにおかぬ手袋が、皮膚《ひふ》が窒息《ちっそく》しそうなほど窮屈な小羊革のものから軽やかな絹サテンあるいはところどころ透けているレース編みのものに変わるだけでも、解放感があった。  上流階級《ジェントリ》ほどガチガチに格式に囚われてはいないとはいえ、日常の影響ははかりしれぬ小間使いたちの間にも、春の気配はうきうきと漂った。広大なジョーンズ家の邸宅の奥深くで目にみえぬ妖精よろしくせっせと下働きを務める娘たちもまた、我知らず浮き立って、その手足の動きやおしゃべりを活発にした。 「ねぇねぇ、いま来てるあのインドのお客さま」  数えきれないほどあるガラス窓の曇りを丹念に磨きながら、女中《メイド》のひとりが言う。 「ちょっとカワイイと思わない?」 「そおかしら」隣でやはりガラスを拭いているメイドが答える。「わたしはあんまり興味ないな。だって気味悪いじゃない。ヘンだし」 「そうかなぁ」 「ヘンよおー! だいいち、連れてる女たちがヘンよ。イカガワシイ」 「あー。あのほとんど裸みたいな奴隷《どれい》みたいなカッコしてる娘たち」  常日頃、裸からはるかに遠い衣装を強要されている娘たちは、やぁね、ゾッとするわね、と、苦笑いの顔をみあわせた。  が、 「でも、きれいだよねー」いたって無邪気な性質のひとりが思わず本心を洩らすと、周囲の娘たちはちょっと鼻白《はなじろ》んだ。「あの子たち。でもって、なんか、いつも楽しそうだもん。あたしけっこう羨《うらや》ましいな」  目上のものに従順に仕《つか》えるという点では同じような境遇でも、彼我《ひが》の差はあまりに大きかった。いたって開放的で享楽《きょうらく》的なインドと、禁欲的で杓子定規《しゃくしじょうぎ》なヴィクトリア朝英国では、常識はほとんど百八十度ちがう。  その実どちらが幸福であるのかは、余人には計り知れぬことだが。 「じゃ、あんた、ハキムさまの侍女《じじょ》になれば」 「そーよそーよ! どうか雇ってくださいって頼めばいいわ。あのひとならきっとすぐに引き受けてくれてよ」 「恥ずかしいスケスケの薄モノ着て、風邪ひいて青《あお》ッ洟《ばな》たらせばいい!」 「えー……」強い反感と拒絶にあって、さしも無邪気な彼女もどうやら言ってはならないことを口にしてしまったらしいことに気づく。「なによー。そんな……ちょっと、言ってみただけじゃない……」 「だいたい王族なんてみんな青い血が流れてんのよ」 「おまけに東洋人!」 「あのひとだったらウィリアム様のほうがよほどマシだわ」 「マシってあんた……」 「はい、そこ、無駄口たたかない!」  |子供部屋の世話係《ファーストナースメイド》のテレサ・ハミルトンが見回りに来て、パンパンと手を叩く。 「口を動かさないで、手を動かせ! 休憩時間になるまではおしゃべりは禁止!」  はぁい、としぶしぶ、仕事にもどる娘たち。 「ったく、近頃の若いものときたら」テレサは腰に手をあててガミガミ言った。「わたしが娘の時分には小間使いが仕事中にうっかり無駄口でもたたこうものなら問答無用で馬の鞭《むち》が飛んできて……」  バババババババババ!  彼女のすぐ後ろをなにか[#「なにか」に傍点]が通り、ゆきがけの突風で彼女のドレスの裾をべろりとまくりあげた。ズロースにつつまれた巨大な尻がなかば剥《む》き出《だ》しになる。誰もそんなものは見ていなかったのだが、テレサはキャッと顔をあからめてあわててスカートを押さえ、しゃがみこんだ。  耳慣れぬ騒音に思わず手をとめて振り向いてしまった娘たちは、あっけにとられてポカンとする。 「な、なに、いまの……?」 「ハキムさまだったよね」 「なにかクルマのついたもんに乗ってた」 「馬、いた? なんだか見当たらなかったような気が……」 「ああ、ああ、ああ!」テレサ・ハミルトンは差恥《しゅうち》と混乱に真っ赤になる。まさか、今日はいていたズロースは、ちゃんと清潔だっただろうか? シモジモの女中たちに見られて恥ずかしいような状態でなかっただろうか?  バババババ。ドガガガガガ!  きれいに曲がりきれず、角でよろけて車体をぶつけ、壁紙と腰板の一定の高さにくっきりと傷を刻みこみながら、自動車は廊下《ろうか》を走った。例によって例のごとくこの時代のロンドン人種には裸同然、下着をまとっただけにしか見えない恰好をした色の黒い娘たちが、座席であるか床であるかボンネットであるかを問わず、たったりすわったりして満載されている。  ハキム・アタワーリは娘のひとりにハンドル操作を任せ、その隣で、大客船の甲板の先頭に立つ船長のように堂々と直立して、いとも満足気な笑顔をうかべているのだった。  自動車はあちこちにぶつかり、無理やり段差を乗り越え、降りて走る娘たちに次々に行く手の戸口をあけさせて猛進した。  目指すは友の執務室だ。  ウィリアムは不穏《ふおん》な震動を感じ不気味な轟《とどろ》きを聞いてハッと顔をあげた。いやな予感に、とっとと逃げ出したほうがいいだろうかそれとも机の下にでも潜《もぐ》ってやりすごすか、と腰を浮かしかけた時、それは目の前に飛び込んできて急停止した。  いや、走るのは取《と》り敢《あ》えずやめたとはいうものの、いまだにブルブルいって震えながら、どこやらから、ひどく煙たいものをもくもく吐きだし続けているのだった。 「ハーイ!」  異国の王子は最高に上機嫌である。 「見てくれ。いいもん手にいれたぞー!」 「きみはまた何をいきなり……ゴホッゴホッ」ガクッと垂《た》れる頭を抱えたウィリアムの手の中で羽根ペンが折れる。「そんなもん、いったいどうやってこの階まで運び上げたんだ……」 「楽しいオモチャだ! 馬がいなくても動くのだ」 「ゴホッ、それは自動車だ。おもてを走るものだ!」ウィリアムは辛抱《しんぼう》強く言った。「頼むから、はやく出してくれ、目もあけてられん。息も苦し、うう、ゴホッゴホッ」 「ウィリアム、おまえもこい! さぁ乗れ!」  娘たちがシャツの腕をとってひっぱる。 「え?」 「だからおもてを走りにいくんだ。おまえもこい!」  またかよ……。象の悪夢が蘇《よみがえ》る。なぜ僕を巻き込む?  だが、ほうっておけばこの男、なにをしでかすかわからない。責任上、いちおう、付き合わねばならぬと思う。  というか。  ちょっとは好奇心もなくはない。  どうせ、やってもやっても終わりのない書類決裁の|決まり仕事《ルーティンワーク》に、いい加減うんざりしていたところなのだ。明るい窓の向こうの戸外に満ちあふれ沸き返る春がオイデオイデハヤクアソボウとさかんに呼んでいるのに背をむけて。  無理やり誘われ巻き込まれなければなかなか冒険もできぬ自分を、ウィリアムはかすかに意識する。  その頃──  リトルメリルボーン122番地では、ケリー・ストウナーが日課の時計巻きをしていた。亡き夫ダグラス愛用の懐中時計のネジを、きっちり十五回。それが毎朝おきぬけの長年の習慣であったから。  ちいさな歯車のかすかな抵抗を感じながら指の腹でしっかりと挟《はさ》んでネジを巻けば、忠実な機械はこちこちといまも正確に時を刻んだ。ひとの鼓動に……心臓の働きに……よく似たかたちで、動きつづけている。  一度も止まったことはない。  故障したこともない。  手の中の機械は辛抱強く動きつづけているが生き物ではない。あくまで無機質な、こころなど持たない装置だ。ネジ巻きをやめればやがて止まるだろう。ほどなく止まり、それっきりほうっておけば、ただ動かなくなるだろう。それは死ぬこととは違うけれど、もしこの時計がこうして動き続けていることをある日突然やめてしまったら、夫がほんとうの意味で死んでしまうような気がする。  ……愚《おろ》かな。  ケリーは笑う。  彼はとっくに死んだのだし、誰がどう見てもすっかり完全に死んでいるのだ。  かたみの時計がどうだろうと、関係ない。  思えば、彼が死んでから巻いたほうがよほど数が多い。使わなくなってから久しい。これはもうダグの時計というより、わたしの時計なのだ。  わたしが巻かなくなったら、しずかに止まる。  わたしの時計……。  ふと視線を感じて顔をあげると、寡黙《かもく》な女中《メイド》が朝食のものらしい盆を持って立って待っているのだった。 「つくったの」 「はい」  ケリーは顔をしかめる。「いらないって言ったのに……」  邪険に手で払うようにすると、女中《メイド》はいつになく頑張って逆らった。 「なにか、ひとくちだけでも。どうか召し上がってください」 「おなかすかない」  仏頂面《ぶっちょうづら》で言いながら、これじゃあまるでダダをこねるコドモだと自分でも思う。余計な口答えなんかして、忠義ものの娘を困らせて。 「……いいわ。そこ、置いといて。あとで……食べるかもしれないから」  女中は素直に盆をおろす。  その全身がなにかを言いたがっている。ケリーの聞きたくない、説教めいたなにかを。  つと顔をそむければ、窓の外を、明るい陽差しが満たしている。女中が丹精した花々がそれぞれのつぼみをつけて、いまにも咲き誇ろうとしている。裏庭に人知れず解きほぐれゆく春のまぶしさに、ケリーはまぶたを半分引き下げる。 「そうだわ」  溜《た》め息《いき》をついたところで思いつく。 「エマ、頼まれてくれない」 「はい?」 「たいしたことじゃないの。ちょっとした、おつかい」  自動車は往来のど真ん中であさっての方角を向いたまま、突然ウンともスンとも言わなくなった。機嫌をそこねた馬ならば、ニンジンをやるとか、鞭をくれるとかすれば、なんとかかんとかなりそうなものなのだが。 「あー、こりゃダメだぁね」たまさか通りすがった職人は、大きくあけたボンネットをのぞきこんで嘆息した。「こんなんなっちゃあ動きゃしませんやね、ジョーンズの旦那」 「故障かい?」と、ウィリアム。 「うんにゃ。ただの燃料《ペトロール》切れだ。ひでりの日の痩せ牛のおっぱいなみにすっからかんのカラッケツだ」  ウィリアムは天をあおいだ。 「燃料とはなんだ」ハキムはムッとした口調で言う。「まだ新品だぞ。買ったばかりなんだ。そう簡単に壊れるとは思わないではないか」  買ったきり、店頭からひきとってそのまま、満タンにするってこともせずに走ったな、とウィリアムは納得した。 「あのなぁ、内燃機関を働かすには燃える何かが必要なんだ。暖炉と同じ。薪《たきぎ》が尽きたら火が消えるだろ?」  懇切《こんせつ》丁寧に教えようとしたが、ハキムの目がどことも知れぬどこかに泳ぎだすのを見て、あきらめる。 「さぁてどうしやさる?」親切な職人は、機械油でよごれてしまった腕を拭《ふ》きふき訊ねた。「燃料さえ注《つ》ぎたせばちゃんちゃん走ると思うけどね。ここらの近所にゃあ売ってねぇでしょう」 「誰かひとをやって持ってこさせるしかないな……しかし、あいにく持ち合わせがないんだ。急にでてきたものだから」 「ははあ。じゃあ、まぁ、とりあえず馬車でも呼び止めておたくに使いを」 「そうだね。頼む、すまんが、たてかえておいてくれれば謝礼は」 「おいウィリアム!」  責任感のかけらもないハキムがいきなり叫んだ。 「あそこはなんだ。さっきから、ひとがどんどん入っていく」 「ん?」  指さしたのはニュー・オクスフォード通りとミュージアム通りの角の巨大な建物だ。 「ああ、ミューデイーズの[#「の」に傍点]だ」 「みうでい?」 「チャールズ・エドワード・ミューディー。精選文庫《セレクテッド・ライブラリー》ってのをはじめてえらく儲《もう》けた賢い親爺さ。あそこはその新館で、百万冊近い蔵書を誇る貸本屋」 「行ってみよう」 「おい!」 「あんなにおおぜいが吸い込まれていく。きっと楽しいところに違いない。ひまつぶしにはもってこいだ」  すたすた歩き出したハキムにあわてて追いすがりながら、自動車と置き去りにされたインドの女たちを振り返った。  何があっても動じない女たちは、動かぬ自動車の上で平然と寛《くつろ》ぎ、あるいはそこらを飛んでいる蝶《ちょう》をかまい、あるいは指の爪《つめ》にヤスリをかけ、あるいは親切な職人の首に腕をからめてなまめかしいまなざしを投げかけている。  この分なら、ほうっておいても大丈夫だろう。 「すまん! できれば、手配を頼む」  とりあえず、ハキムのバカを追いかける。  既に書籍文化・大衆文芸の爛熟《らんじゅく》期を迎えつつあった英国ロンドンでも、本というのはたいそう高価で貴重なものであった。三巻本《スリー・デッカー》の小説の値段がおよそ半ギニー、一般労働者の週給に相当する。ごく一部の好事家《こうずか》や裕福なひとびとを除いては、本は所持するものではなく、あくまで借りて読むものであった。  その貸本すらけっして手頃な値段のものではなかったところへ、わずか一ギニーの年会費さえ納めれば、一度に一冊ずつなら何度でも繰り返し借りだすことが可能な制度を導入したミューディーズが、たいそう繁盛《はんじょう》したのである。  このような圧倒的に廉価《れんか》な貸し出しを可能にしたのは、大量に仕入れ、大量に貸し付ける制度である。数百部をまとめて買い上げてくれるミューディーズを出版社側も贔屓《ひいき》にせざるをえず、定価の何割引もの破格値で取引することになった。また『スペクテイター』誌など当時の人気雑誌に広告を打ったのも大きい。ミューディーズの広告ページを見れば、トレンドも人気も今週のおすすめもみな一目でわかった。ようするに、ミューデイーズが推《お》す本なら売れる、逆にいえば、そうでないなら出してもしょうがない、ということだ。  しかもここは『精選文庫』との呼び名のとおり、家庭に持ち帰っても安心な、年寄りからこどもまで家族そろって愉《たの》しめるような、健全な書物のみを取《と》り揃《そろ》えていた。そのことも高く評価されたのである。厳格で禁欲的でやたらに外聞を気にするこの時代のひとびとは、うっかり破廉恥《はれんち》な本を手にしてしまうことや、家族がそのようなものを目にすることを強く畏《おそ》れたからである。  一八六〇年末にオープンした新館の一階は、床面積も天井《てんじょう》の高さもまさに目を見張るような巨大なドームのような大ホールであった。この部屋の中央には巨大な半円形のカウンターがあり、会員はその名のアルファベットによって四つに分かれたセクションのいずれかに並んで、貸し出し・返却の恩恵に与《あずか》った。  一階には他に、書籍販売部門、地方配送部門・輸出部門と、ロンドン・ブック・ソサィエティのコーナーがあった。最後のこれは、ロンドン周辺在住の会員に限る特別の制度で、年会費が一般の倍のニギニーであるが、週三冊まで借りることが可能で、しかも、希望リストを送れば二三時間以内に専用馬車で問題の書籍を自宅などまで届けてくれるというたいそう贅沢《ぜいたく》で便利なものであった。  地下にはカタコンベと呼ばれる巨大な蔵書倉庫があり、二階には専門スタッフがいたんだ本を修繕《しゅうぜん》する部門などがあった。およそ今日でいう図書館に相当する施設であったと考えていただくとそうはずれはない。  エマは女主人に渡されたメモを片手に、書架《しょか》を練り歩いた。壁という壁ははるか見上げていると顎《あご》が痛くなるような高さまで、種々の本に埋《う》めつくされている。革や布、そして紙など、装丁をなすさまざまな素材の匂いがした。  この世には、もう読みつくせないほどたくさんの本がある、とエマは思った。そして年々、いや毎日のように、新しい本が出版される。  一冊読み切るだけでも難儀《なんぎ》なのに、どの一冊にも、必ずそれを書いたひとが居るのだから途方もない。  何万冊という本があるのは、何万人というひとがいるのと同じだった。  何万というそれぞれ別の心があり、ものの感じかた考えかたがあるのと同じだった。  そのすべてと分かり合うことなど、誰にもできはしないだろう。すべてにまんべんなく目を通すことすら、たぶん不可能だろう。  もし、みつけたら、よく知り合うことができたなら、かけがえないほど大好きになるだろう本でも、手にとることがなければ、そういうものがあるとそもそも知ることすらなければ、そのままだ。すれちがっていく。  真に心を打つ本との出会いは、ひととの巡《めぐ》り合《あ》いと同じだ……。 「あ、ねぇ見て! これよこの本」  知らない婦人が同伴女性に話しかけている。 「すっごく素敵なお話なのよ」 「どんな?」 「不幸な生まれの女性がね、貴族の男性とめぐりあって、身分違いの恋をするんだけど……」  エマが彼女たちの後ろをとおりかかると、その気配《けはい》を知ってか声をひそめたので、つづきの肝心なところは聞こえなかった。が、紹介された女のほうが驚いたように大きく目をみはり、すでに読んだほうの女性が悪戯《いたずら》っぽく目配《めくば》せをして明るいクスクス笑いを浮かべたところをみると、たぶん、楽しい物語なのだろう。紅涙《こうるい》を振り絞らせるような悲恋話ではなく、幸福な結末を迎えるようなものなのだろう。  よそごとながら、ちょっとホッとする。  それはなんという本なのだろう。  彼女たちの手元が見えなかったのが惜しまれる。  きっかけがあったら、読んでみたいような気もする。こんどはだめだけれど、次の機会にでも。もし、女主人の会員権を少し使わせてもらうことができるなら。  少し迷ったので、ひとに訊ねて、ロンドン・ブック・ソサイエティの受け付けに本を差し出した。 「この三冊ですね」  会員証を差し出すと、本屋の男は怪訝《けげん》そうな顔をした。会員証の記述と、エマの顔を見比べる。 「あんた、このひとじゃないでしょう」 「代理です」エマは言った。「奥さまは、足を傷めて来られないものですから、かわりに」 「ああ、そうなの」男は手早く貸し出し処理のための作業をすすめた。「そういえば最近みかけないなと思ったら……そりゃあいけない。ウチの親もねぇ、昔ぁテムズに沈めたって死なないぐらいピンシャンしてたのに、ちょっと足悪くしてからってもの、アッという間だったからねぇ。人間、動けなくなると急に弱るもんなんだな」  エマは黙ってうなずいた。  証文にサインを求められて、ケリー・ストウナー・代理、と記す。そういうやりかたを、予《あらかじ》めきちんと教わっておいたことを有り難く思う。でなければ、まるで悪いことでもしようとしているかのようにドギマギしてしまったことだろう。  そもそも、文字の読み書きがスムーズにできるようになっていなかったら、この程度の使いも果たせなかっただろう。 「こらハキム!そう次から次へひっぱり出すな!出したら戻せ!もとの場所に!」 「うるさいなぁ」  ハキムはまた適当に手あたり次第、新しい本を開いては、ぱらぱら眺め、下唇《したくちびる》をつきだした。 「ちぇっ。これも字ばっか」 「あたりまえだ!」 「もう少し絵とか写真とか、眺めて楽しいものがあったってよいではないか。ウチの親父は極彩色のそれはそれは素晴らしい本を一揃い持っているぞ」 「あーそうかいそうかい……ああっ、ちがう、それはそこじゃなかっただろッ! いいかげんに入れるな!」 「しかも、カーマスートラの」  ハキムは妖《あや》しい横目を使った。 「いちいち金の縁取《ふちど》りがしてあって、指触りがえもいわれなくて、しかも、ぺージをめくるたびに、白檀《びゃくだん》のような麝香《じゃこう》のようななんとも良い香りのする本なんだ」 「そ、そ、それはもしや……その名は確か」 「はじめて見せられたのは、親父の十七番めの嫁にだったな」ハキムはうっとりと遠くを眺めるような目をした。「私より八つかそこらしか年上じゃなかった。ある時、というのは、私が五歳かそこらのことだが、ちょっとこいこいと呼ばれてオヤツでもくれるのかと素直についていくと、薄ものを何重にも掛けめぐらした寝所になんともいえん香が焚きしめてあって、王子《ラスクマル》あなたはこんなものをこれまで見たことがあるか、とかって言って……気がつくと嫁めが、本のページにある挿絵《さしえ》とまったく同じポーズを」  ウィリアムの顔がみるみる茄《ゆ》で海老《えび》のようになると、ハキムはクスッと意地悪く笑った。 「挿絵ってのは、実に素晴らしいものだ」 「そ、それは否定しないがな!」ウィリアムは両手を振り回した。「文字には無限の可能性がある。人間の頭脳には想像力というものが備わっているから、なまじ絵で具体的に見せられるよりも、ことばでざっと暗示されるのみであるほうが良いこともなくはないだろう。なにしろそれなら、どこまででも自分の好きなように空想の翼を……」  つばさをはばたかせるようにガバと両手を思い切り広げた。うっかり、本を持ったままであることを忘れて。その手が、その本が巻き起こした時ならぬ風が、誰かの帽子をかすかに舞いあげた。ア、と小さな声をたてて鍔《つば》をおさえるひとに、ウィリアムはあわてて、どうもすみません、と謝ろうとして。向き直って。 「……エマさん」  驚いた。  想い人は質素なケープコートの胸元に借りたばかりらしい本を三冊大切そうに小抱きにしている。 「うわ」ウィリアムの心臓は口から飛び出しそうだ。「びっくり! こんなところであえるなんて!」  ハキムは一歩引いた位置にいて、熱を帯《お》びた瞳でじっとエマを見つめる。  エマはかすかに唇を噛《か》み、そっと目を逸《そ》らす。 「これからですか……あ、いや、もうお帰りなんですか? じゃあ、送って……しまった。そうだ。クルマがだめなんだった」  へどもど言いよどむウィリアムを一瞬だけ、妙にすっきりとしたまなざしで見つめると、エマは軽く会釈《えしゃく》をした。 「あ……あ、ども」反射的に帽子を脱いで挨拶《あいさつ》をかえしてしまう。「じゃ、ま、そーゆーことで」  無言のまま踵《きびす》を返してさっさと立ち去るエマの背中を、名残惜《なごりお》しげに見守るウィリアム。 「あ〜あ」せつなくも溜め息が漏れる。「せっかくのチャンスだったのに。自動車がちゃんとしてたらなぁ」  ハキムは自分で自分の唇を指先で爪弾《つまはじ》くようにしていたが、ふいに両目を細めて、おい、と言った。 「カーマスートラはないのかな」  その固有名詞にはそれなりに認知度があったらしい。ギョッとして振り向きざわめく周囲の大勢に、ウィリアムはまっかになる。 「こ、声がでかいって!」 「英訳本ぐらいあるんじゃないのか。挿絵つきならなおいいんだが。聞いてみようかな」 「なんてことを! やめろよ、バカ」 「何故《なぜ》だ。とても役にたつ良い本なんだぞ。おまえにも是非読ませたい。歴史的にも実用的にも実に価値の高い……」 「いいから。もう充分見物したろ! 帰るぞ!」  袖をつかまえて引っ張っていく。 「ちょっと、旦那」カウンターの人間に呼び止められる。「借り出しなら、手続きをしてもらわないと」  しまった。知らぬ問に本を持ったままだった。  いまさらもとに返すのも厄介《やっかい》だ。  しかたなく、差し出された書類に、住所・氏名・その他ちょこまかと書き込んでいると、 「あそこの奥さん、いけないんだってねぇ」  せっせとなにかを片づけながら、本屋の男が言った。 「え?」 「いや、ほら、おたくがさっき話してた眼鏡の子。お知り合いなんでしょう」  ウィリアムの碧眼《へきがん》がすっと色淡くなる。  碧玉。エメラルド。どこまでも澄みきって透明なみどり。  巧みにカットされた高価な宝石がきらめき、巨大なシャンデリアをつるし壁に金箔《きんぱく》をはりめぐらした大広間《ボールルーム》の喧騒《けんそう》を映す。ひとところに固められた室内楽団の面々、弦楽器の弓が何本も揃っていっせいに上下する。洗練されて品の良い音楽にあわせて、いとも優雅に舞踏曲《ワルツ》を踊るひとびと。滑るような揺れるような動き、裾からかすかにはみだす靴先。男たちの没個性的な黒服と、女たちのドレス……色もとりどりならデザインもさまざま!……の対比が大きい。  壁際では踊りの輪からはずれたものたちが、そこここに固まって歓談している。 「……そして猟犬が五匹がかりで追い立ててきたところを、こうじっと、狙いすまして……ドン!」  赤毛の青年が大袈裟《おおげさ》な身振り手振りをいれて描写をし、迫力のある銃声を模すのに、婦人たちは、おお、と声をあげ、息を飲み、ショックをうけたとの想いいれで、胸を押さえたり眼をぱちくりさせたりする。中には、過度に驚いたふりをして少しばかり気が遠くなったかのように目当ての若者の肩にしなだれかかっては、おやおや大丈夫ですかとちゃっかり介抱されるその道の達人|既婚婦人《マダム》もある。 「お若い殿方は狩りがお好きよね」そういう方面からはとっくに引退したといわんばかりのある婦人は、意味深《いみしん》に横目を使い、婉然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んだ。「巧みに逃げる獲物ほど深追いしたくなる道理。あまりにたやすく堕ちるのは、つまらないのじゃないかしら」 「さよう、とうていおのが腕にはかかってくれそうにもない高貴な獲物ほど、狙ってみたくなるのが人情にございますな」その婦人の手袋をはめたままの手に軽く口づけする真似をして、気取って言ったのはロバートである。「あるいは見知らぬ追手から逃げ延びて、もう大丈夫とホッとひといきついているような獲物が。『たまたまそこに狩人《かりうど》の矢を受けて傷を負った牡鹿《おじか》が群れから離れて唯《ただ》一頭、弱り果てた四肢《しし》を休めにやって参ったのでございます』」 「『その憐《あわ》れな獣のあげる坤《うめ》き声のすさまじさ──丸い大粒の涙が一滴、一滴、罪のない鼻面《はなづら》を伝わり走るその哀《あわ》れさ』」得たり、と婦人がすらすら続けると、 「『こうしてその愚かな獣は──溢《あふ》れ出《で》る涙でひたすら流れの水嵩《みずかさ》を増しておりました』」青年はにっこり微笑みながら引用をしめくくった|。《※》[#『お気に召すまま』シェイクスピア 福田恒存訳 新潮文庫より一部引用。省略した部分は�──�で表した。] 「沙翁《シェイクスピア》とはいまどき古風でらっしゃいますこと、ミスター・ハルフォード」 「なにか一節暗唱しないことには、及第点をもらえなかったものですからね」青年貴族は片目をかすかにすがめて上品なウインクのまねごとをした。「どうせなら、将来、なにかの場面でちょっとぐらいは役にたちそうなフレーズを、これでも必死に探しましたよ」  婦人たちに心地よい笑い声があがり、青年貴族の機知が承認される。  ファッションについて、観光地について、天候気象について。話題の新作|探偵小説《ディテクティヴストーリー》について(「それがあなた、驚いたことに、なんと執事が犯人なんですのよ!」)……深みもなければ当《あ》たり障《さわ》りもない典型的に社交的な挨拶会話がそこここに展開し、そのついでのように新参者が紹介され、次なる集《つど》いへの招待と約束が交わされる。すべての舞踏会や演奏会そして食事会は、いわば、次の……別のどこかで別のホスト・ホステスによって主催される……舞踏会や演奏会や食事会への布石としてもっとも効果的に機能する。上級階級という階層を成す特定の数のひとびとは装いをこらし時と場を得て集まって一定時間を過ごしてはまた散り、また違うかたちで集まってはやがて散ることを飽きもせず繰り返して人生をやりすごしていくのだった。  そろそろ席をはずそうと立ち上がったとたんにどうしても名前の思い出せない豊満な中年婦人につかまり、いつと定まらぬ招待をされて恭《うやうや》しく礼を言わざるを得ないはめに陥った青年ロバート・ハルフォードは、辛抱強い笑顔をつくったままなんとか堪《こら》えた。婆の繰り言が一段落し、では、と、屈め気味にしていた腰をあげ、ようやく解放され、もうちょっと気のおけない相手はいないものだろうかとあたりを見回した。  カクテルの酩酊《めいてい》と眠気をもよおす音楽、さんざめくフォーマル衣装のひとごみに、かすかに眩量《めまい》を覚える。毎週のようにそっくり似たような光景の中に立っているので、現実感が乏しい。なまじじっと立ち尽くしていると、そのうちに遠近の感覚がおかしくなり、耳がふさがってくる。すこし熱でもだしてしまっただろうか。  と。  不器用そのもの、不調法まるだしに、ひとりだらしなく壁によりかかっている黒服に眼がとまる。  視線が交わると相手は、やぁ、とばかりに片手をあげた。元学友だ。 「ウィリアム・ジョーンズじゃないか!」思わずスキップをしそうになる足を抑えて、近づいた。「これはこれは珍しい」 「だろ」ウィリアムはちらっと肩をすくめた。 「元気だったか? 挨拶は? お偉《えら》がたに紹介しようか?」 「ありがとう。だが、ベンウィック大佐とその奥方ならば、一応お目通りした」ウィリアムは常日頃より濃い翠《みどリ》色になった瞳に(いらいらしている証拠だ、とロバートは思う)、やれやれといわんばかりに目蓋《まぶた》を被せた。「主催者さまにぐらいはちゃんと顔をあわせておかないと、ほんとに行ってきたって証拠にならないからな」 「ははあ?」ロバートは美しく整えられた眉《まゆ》を段違いにして、貴族的に白く高い鼻梁《びりょう》の向こうから旧友を眺めた。「来たくてきたんじゃないって言いたいわけだな」 「あたりまえだろう。父が、なにがなんでもとにかく行ってこいというんだ」ウィリアムはもはや隠し立てもせずに溜め息をついた。「最近断った招待状をドサリとひとやま投げ出して見せられて、さんざん叱られてしまったよ。執事《スティーブンス》め、さっさと捨ててしまえばいいのに、全部とっておきやがってさ。小遣い減らされるのはまちがいない」 「ハハハハハ。それで執事を責めちゃ気の毒だろう。で、なんだ、ひとりできたのか?」 「いや。連れがいる。あそこでお花抱えて回ってる」  ウィリアムがさりげなく示す先では、漆黒の肌と異国的な風貌《ふうぼう》でめだつ青年が巧みなステップでどこぞの婦人をリードしている。 「ああ、あの彼。いつか新聞で見たよ」ロバートはうなずいた。「インドの王子さまだっけ。そういえばきみんとこに滞在しているんだったな」  マダムたちも興味|津々《しんしん》、ひそひそと噂《うわさ》をしていた。  彼は踊りの相手には不自由しないだろう。あるいは今宵《こよい》からしばらくは、空閨《くうけい》を託《かこ》つこともないかもしれない。 「一緒に踊ればいいのに」 「冗談じゃない」 「彼はなかなか楽しそうじゃないか」 「ああ、そうだな。連れてきてやって良かったと思うよ」ウィリアムはいかにも他人事のように言った。「ハキムは生まれが生まれだからなぁ、こういう場では水を得た魚だ」 「きみは」ロバートはしげしげと友人を眺めた。「どっちかというと、空中に釣り上げられてパクパクしている魚みたいだな」 「仰せのとおり。義務を果たすのも楽じゃない」 「義務?」 「僕は|ウチ《ジョーンズ》の幹部社員だからな。父は社交の場に出て愛想をふりまくのも重要な任務のうちだというのだ。正当な理由もないのに必要なしごとをせず、招待をやたら断ってしくじってばかりいるのなら、業務|不履行《ふりこう》で馘首《くび》にしてやるって」  ふざけているにしてはすこぶる生真面目《きまじめ》な表情だ。演技にしてはうますぎる。どうやらほんとうのことらしい。 「……わたしもかなり面倒臭がりなほうだが」とロバートは言った。「きみも相当だな」 「そうか?」ウィリアムはまた吐息をつく。「だって、実際ほんとにつまんないじゃないか。パーティーって。堅苦しいし。こうしてただ突っ立ってるだけって、ほんとバカみたいだし」 「そりゃあそうだが」 「ともかく、笑顔をふりまいてひとさまに顔を覚えていただいてこい、とかって言われてきたけどさ、次々に紹介なんかされようものなら、とてものことに顔と名前が覚えられそうにない。みんな同じに見えてしまう。それでは後々かえって顧客をしくじるだろう? しょうがないから、さっきから眼の前をゆくひとを観察して、ピンクが何人、水色が何人って指折り数えてみてるんだけれど、考えてみればそれも虚《むな》しい。知恵熱がでそうだ。ハキムさえいなきゃ、さっさと抜け出して帰ってるとこだった。きみにあえてとても嬉しい」 「そりゃあご同慶《どうけい》のいったりきたりだが……」  いずれは男爵と呼ばれる予定の、生まれながらの相続人《エア》であり、知人友人のほぼ全員がなんとか卿とかかんとか伯とかつまり従男爵名簿に載らぬではない由緒正しい血族の一員ばかりであるロバートにとって、ウィリアム・ジョーンズはごく数少ない例外であった。  なにしろ、この男ときたら、単なる商売人の息子なのだ!  うなるほどある金と評判でこの階級《クラス》に辛《かろ》うじて出入りを許されているものの、しょせんは成り上がりの新参者にすぎない。貴族社会の序列では最下段の縁のぎりぎり端っこのほうにいるようなもの。  そんな地位立場にいる年頃の、それなりにまともな若者のするべきことといったら、ありったけの社交のチャンスに顔をだして、良縁の相手を探すことしかないではないか。  親父どのはそれを焚《た》きつけているんだろうに、と、ロバートは正しく推察理解した。  爵位やら、先祖伝来の(よって動かせない)地所やらは持っているものの、それだけにかかりも多く日常生活がいささか不如意《ふにょい》になりつつある上流人士と、財産だけは腐るほどあるがどこの馬の骨とも知れぬ卑しい血筋でしかない|田夫野人《でんぷやじん》一族が、主と教会に許された婚姻の秘蹟《ひせき》によって互いの不足を満たし都合をつけるのが、当節よくある世知《せち》というものである。年頃の適当な男女で身辺によほど大きな問題がなければ、種あるいは畑としてどうであるか、繁殖候補者としてどの程度の値打ちがあるか。年寄り連中が見抜きたがるのはただその一点にすぎない。社交とはその値踏みのための舞台に他ならない。  まぁ、ウィリアムは心配あるまい、いずれ高く売れるだろう、と炯眼《けいがん》のロバートは思う。  見た目もまともだし、酒癖も悪くないし、妙な病気も持っていないようだし、誰かに決闘を申し込まれたりどこかにコドモを隠したりもきっとしていないに違いない。パッとしないが、充分である。  そもそも、女たちというものもまた、危険すれすれの恋愛狩りの美味な獲物にされるよりは、立場を逆転させて、キューピットの矢をつがえる側にまわり、汁気たっぷりの可愛い獲物をみつけて狙うほうが好きなのだ。落とされたふりをして落とすほうが。追われて逃げたがおいつかれたかのような顔でしっかり罠に捕まえるほうが。  物欲しげに賢《さか》しらに将来性やら損得やらを巧みに計算して恋人候補を物色するような剣呑《けんのん》な男よりは、このウィリアムのように、瓢々《ひょうひょう》と恬然《てんぜん》と、そんなことにはいっさい興味がありません、当分は結婚などする気はさらさらありません、といわんばかりの涼しい顔をしているほうが、かえって望ましい、好ましい。女たちの眼を惹き、興味をそそり、関心を集める。そういうものだ。  だが……  ものには限度というものがある。  いくら本来は好もしいタイプでも、目につかなければ見つけ出しようがない。引っ込み思案にすぎては出会いがないし、見損なわれるかもしれない。  しょうがない、ここは一肌ぬいでやるか。  ともだちだもの。  自分のことはいくら億劫《おっくう》でも、ひとのこととなると急にフットワークが軽くなるのが生まれ育ちの良いものの証拠、まして、ほうっておくとろくな目にあいそうにない鈍いやつにほど愛情を抱いてしまうのは、高貴な血の宿命であった。 「こい」  ロバートはウィリアムの手をとってグイとひっぱった。 「とっておきの美人に紹介してやるから」 「え、いいよ」 「なにがいいだ、遠慮するな。大丈夫、タチの悪いのは避けてやる」 「だって、きれいなひとは気位が高いから」ウィリアムはへどもどした。「きっとアガッて、バカなこと口走って、軽蔑《けいべつ》されちゃうよ」 「だからこそ練習が必要なんじゃないか。体操の時間に習っただろう、なにごともまずは訓練だ」ホイ、と両手で尻を叩き、「突撃!」  ロバート・ハルフォードは悪いやつではない、とウィリアムは思う。学業時代から友好関係が続いている数少ないうちのひとりだ。本気で好きだなと思えるやつは、ほとんど彼だけだといってもいい。  思えば数いる級友《クラスメイト》の中で、お互いなんとなく微妙な立ち位置で、ほとんどの人間に遠ざけられ孤立してしまっていた。そんなことになったのは、ロバートの場合はひとりあまりに軍人っぽすぎてご清潔だったからだし、こっちは逆にあまりにもなんでもない馬の骨だったからだ。ふたりが仲良くなったのは、他に親しく打ち解けてくれるものが現れないはぐれものどうしだったからかもしれないし、N極とS極がひきつけあうからでもあるかもしれない。  悪いやつではないがオセッカイだ。  しかも、この手のパーティーは彼のもっとも得意とするところ。長年の縄張りだし、独壇場といってもいい。  天の川にさんざめく数多の星屑のような老若男女に次々に紹介され、こいつはボクの親友なんですと肩を抱いて推薦され、以後よろしくどうぞお見知りおきを、とにっこり笑って手を握る、この繰り返しに、ウィリアムは次第に朦朧《もうろう》としてきた。そうでなくとも初対面のひとが大勢いるところが苦手なのに、なまじ階級の高いかたがたにはさまざまな呼称がある、正式名称、綽名《あだな》、ご領地名。誰が誰と夫婦なのか親子なのか、友達なのか宿敵なのか。覚えなければならない関連事象が山ほどあり、矢継ぎ早な入力にいまきいた情報の整理もおいつかない。  まぁ、親父が期待したのは要するにこういうことだよな、とウィリアムは思う。顔つなぎ。とりあえずの面通し。なーに、どうせ相手だって一瞬後には僕のことなどろくに覚えちゃいないだろう。この次のパーティーでまた、どうもはじめましてと言っても、何度も同じひとに初対面のご紹介をされることになっても、それはそれでかまわない、そのたびに誰かにきちんと思い出させてもらえばそれでいいのだ。何度かやっていればだんだんにちゃんと覚えるだろう。覚えなければならないことぐらいは。  その点はまことにロバートのおかげで感謝しなきゃならないわけだが。 「おまえは若い」  父はまことに苦々《にがにが》しげにそう言ったのだった。スティーブンスに密告され、父の執務室に呼び出された時のことである。パーティーを大量にサボッたばかりか、断り状を書く手間すらも押し付けていたことを糾弾《きゅうだん》されて、なにやら、よほどの不品行を戒《いまし》められたかのような具合であった。 「若さというのは反発力だ。バネのようなもので、押さえつけられればられるほど、反抗せずにおかん。だが、そんなにも若く幼く無鉄砲で愚かなままでいられるのは、おまえがすこぶる恵まれておるからだ。自分で自分の食《く》い扶持《ぶち》を必死に稼ぎ出さなくても良い、寝るところにもこまらない、幸福な境遇にあるからだ」  まことに仰《おお》せのとおりで反駁《はんばく》の余地もない。ウィリアムは耳が赤くなっているような気分を味わいながら、直立したまま黙ってうなだれた。  父は、そこに座れと手で示し、自分も執務机のうしろからでてきながら、容赦《ようしゃ》なく追撃した。 「そんな身の上でありながら、せっかく受けた招待を軒並《のきな》み断るなど言語道断だということが、なぜわからん? 爵位も持たず、ポッと出の商人でしかない我がジョーンズ家が、ともあれジェントリに名を連ねられているのは、なぜだと思う?」 「財産でしょう」 「それもある」すかさず答えると、ぴしりと返された。「が、より大切な要素もある。すなわち……品格と知性と礼節だ」  ウィリアムは両手をキュッと握りしめた。掌《てのひら》に半月の爪痕《つめあと》が食い込むほど。黙って無表情のままでいることができたのは(できたはずだが)、我ながら(自分にしては?)上出来だと思う。 「この三つを学ぶのにふさわしく、この三つがもっとも顕著《けんちょ》に現れる絶好の場所、それが社交界だ」  父は執事にもってこさせた細巻きの葉巻の両端を専用道具でぱちんぱちんと切り落としながら(いとも優雅に、と自分では思ってるんだろうな、とウィリアムは思う)、悠揚と話し続けた。 「上流階級《このクラス》は社交界で成り立っている。出自や気心を互いによく知り合っていること。すくなくとも面識があること。交流体験、ともに過ごした時間があること。親しさ、友情、あるいは、婚姻関係。社交界内部《サークル》の人脈がいわばこの世界のすべて[#「すべて」に傍点]なのだ。日沈むことなき大英帝国は、互いに友であり親戚である有限の人士の強固な結束と利害の一致によって支えられている。ほんとうのところ、全世界の富と命運が、大半、この限られた数百人いや数十人の特権的貴族の白きたなごころに握られているのだと言っても過言ではない。そういうことぐらい、おまえも知らないわけではなかろう?」  この話のどこに品格や知性や礼節がある? とウィリアムは思う。  強欲《エゴ》と拘束《ネゴ》と既得権益があるだけじゃないか。  だが、そんなことを口にするほどには……残念ながら……ほんとうの意味ではもう若くない。そしてバネのような単なる反発としてではなく、きちんと反撃し対抗し独立独歩ができるほどの個人の地力もない。まさに自分は、父のいうとおり、甘やかされた宙ぶらりんな境遇に漂っているだけにすぎないのだ……。 「その特権人種と親しむべく数多のパーティーに出席するのは、現時点ではなにより大切なおまえの仕事なのだ。本来ならば受けた招待すべてに応じるべきだ」 「……ですが……」 「なんだ」父は口答えを好まない。「せっかくのご招待をいくつも断らざるをえなかったような何かわけでもあるというのか? 理由らしい理由があげられるものなら言ってみろ! きかぬではない」 「はぁ。あの、たとえば……いまはハキムが……」 「ふん! 彼も連れていけば良いだけの話ではないか。こちらの社交界に伝《つて》をつくっておくのは、彼にとっても悪くないだろう」  そして、そのハキムにたっぷり恩恵を施《ほどこ》しておくのは、ジョーンズ家にとっても悪くないわけだもんな、とウィリアムは思う。 「なんだ。その顔は。まだなにかあるのか?」 「えっと……いや。実は」  そんなことを言うつもりではなかった。まったくそんな予定ではなかったのに、追い詰められて、つい口にしてしまったのだ。 「ストウナー先生のことなんですけど」 「ミセス・ストウナー?」  父は口からたばこを離し、眉をあげた。 「あの御仁《ごじん》がどうかしたのか」 「あの(頭がカッとして自分でもなにを言っているんだかわからない)なんでも、具合が悪いとかで……寝ついてしまっているそうで。心配で。ですから、ええと、どうもいま、こう、華やかな場にはあまり……」 「なんだと、そんな大事なことを何故はやく言わん!」  あっけにとられた。「いや。ちょっと噂を小耳に挟んだだけで……それもたまさか出先で、確実なことなのかどうかもまだ確認していなくて」 「確実かどうかなどどうでもよい。恩師が病気ともなれば見舞いのひとつも行くものだろうが!」父はここぞとばかりにガミガミ言った。「ウィリアム、少しは礼節というものを知れ。社交にはルールがあり、まず、それにいつもしっかりと則《のっと》るということがなにより重要なのだ。だいたいおまえは、わたしが言うまで十年間、一度もあの先生のところに顔を出さなかったそうではないか。そういうところがまことになっとらん、だらしない、とわたしは言うのだ」 「…………」 「よし、わかった。木曜でかまわないかな、スティーブンス?」  半分しか吸っていない葉巻を手にした灰皿に捩《ね》じこまれながら、心得た執事は、はい、とうなずく。 「は?」ウィリアムは椅子の上で腰を浮かした。「待ってください、なにが木曜なんですか」 「見舞いにいく。むろんおまえもだ」父は反論を許さない。「他の予定があってもキャンセルしろ。次の木曜の午後、われわれはストウナー宅におじゃまする。午後のお茶の時間ごろがいいだろう!」  なんだってああ手前勝手で強引なんだろう?  父の頑固にこわばった四角い顎、差し出せば岩塊でもバリバリ噛み砕きそうなそれを思い出すと、ウィリアムは堪《こら》えた溜《た》め息《いき》が胃のあたりでぐるぐるもたれるのを感じる。  ひとの都合とか、その場の空気とか、微妙なタイミングとか、まだ揺れていて決めきれない気持ちとか……そういったデリケートなものを敏感《びんかん》に読み取って少しぐらいは合わせてみようといったような殊勝《しゅしょう》な気持ちは、父には微塵《みじん》もないのだろうか? ないのだろうな。あの突っ走る馬車馬のような果敢な突進エネルギーがあらばこそ、|ジョーンズ商会《ウチ》はこれだけの大店《おおだな》になり、名を言えばひとさまがああ、あそこねと察してくださるようなものになりつつあるのだ。  その親父と……  うう、木曜に、あそこにいくのか?リトルメリルボーン122番地に?親父と一緒に?  エマさんに、あの頑固親父をみられてしまうのか。  っていうか、あの親父にエマさんを紹介……なんてすることができるとはとても思えないんだが……あるいは……  頸筋のあたりが熱くなる。  あれで、抜け目のない親父だから、あっさり見抜いてしまうのじゃあないかしら。自分の気持ち。エマさんへの想いを。  そしたら。  そうしたら?  不穏な予感に胸は轟き、胃はともするとでんぐりがえりそうになる、なのにロバートは快活に陽気に笑いながら僕をとことん引きずり回し、ぴかぴかの衣装と宝石をまとって髪をコテコテに結い上げた女たち、その女たちをひきたてるべく慇懃《いんぎん》に控えた男たちの間を、次から次へと挨拶させて回るのだ。 「レディ・キャンベル」 「ミスター・ハルフォード」  自分の立場で呼びかけるべき正しい種類の呼称が目があったとたんにスルリと出てくるのが一流社交人種というもの。まずは微笑みながらその名をしかるべく口にして手と手をそっとつなぐとか口づけの真似をするとか会釈をするとかすれば、とりあえずの礼儀は果たせる。三時間にわたって三百人のランダムにやってくる相手に次々にこれがこなせなければ、貴族はつとまらない。 「あらまぁ、ジョーンズさんじゃありませんの。すっかりご無沙汰《ぶさた》いたしておりまして」  母親以上の年配のキャンベル美人がドレスをつまんで深々と膝を折ってみせた。 「最近とんとお見かけいたしませんでしたから、お加減でもお悪いのかと」 「そういう訳でもないのですが」ウィリアムは必死に思い出そうとする、このひとに、いったい前にどこであったんだったっけ? 「お父様お母様はお元気?」  おっと母親のことも知っているらしいぞ。どこまで知っているのかな。 「おかげさまで父は体も口もまだまだ達者でして」とりあえず無難なことを言っておく。 「僕など、毎食でも前菜代わりにばくばく食べられそうでまいっております」 「まぁ、愉快なかたね」ころころ笑うキャンベル夫人。「あら? どうしたの」 「これ、いや」夫人の肩の向こうに半ば隠れるようにしている小柄な娘が、手袋をひっぱりながら言う。「きらい。やっぱりレースのにすればよかった」 「まだそんなことを!」  軽く叱るような口調で言いながら、夫人はチラッと目をあげて、ウィリアムとロバートを眺めた。懇願《こんがん》するように。  その目つきはさしも鈍いウィリアムにもわかった。よかったら、かまってやってくれないか、というのだ。 「こちらの愛くるしいレディは」ソツのないロバートがさっそく紳士らしく会釈をする。 「お嬢さまですか?」 「三女のエレノアですのよ。実は、本式の舞踏会はこれがはじめてなんです」貴族仲間に紹介できる喜びに思わず胸をはりながら、娘の肩を押し出す夫人。「ほらほら、教えたでしょう、ご挨拶はどうするの?」 「ミスター・ハルフォード」娘は真っ赤になりながら、まっすぐにロバートを見つめ、スカートの横をちょいとつまんで、一瞬だけ膝を曲げて戻す。 「ミス・エレノア・キャンベル」  余裕しゃくしゃく貴族の会釈をかえしたロバートが、ふりむいてチラッと見るので、ウィリアムもしょうがなく挨拶をした。 「ウィリアム・ジョーンズです。どうもはじめまして」 「ジョーンズさん……?」エレノア嬢の、おきゃんに目尻の切れ上がった瞳が丸くなる。 「もしかして、あの、大きなお店のジョーンズさんですか?」 「そうそう、これはお宅の大ファンですのよ!」キャンベル夫人がいまさら思い出したように声を張り上げる。「とにかくこの娘はお洒落《しゃれ》に目がなくて、週に三回も四回もうかがっておりますの。今日だって、ドレスが気にいらない、髪形が気にいらないって、何度も何度も取り替えて直させて、もう、たいへん。やっぱりジョーンズさんでみたあの、フランス製の生地《きじ》のほうが良かったって」 「おかあさまったら」 「今日の集まりにはもう間に合わないから、どうせ縫《ぬ》いあがらないからというのに、それでもいい、どうしても欲しい、もし余所《よそ》のひとにとられたら一生くやしい後悔する、と、こうなんですもの。この子はまだまだ幼稚で赤ちゃんで……。しょっちゅう、ふと眺めてきたもののことを突然思い出しては夢にまで見るようになってしまって、突然どうにも止めどがなくなって、いますぐ欲しいって言い出して、馬車を飛ばして買いにいかされますのよ」 「こらこら」ロバートに肘でつつかれる。「なにぼうっとしてるんだよ。そんな上得意さまにはとうぜんお愛想のひとつも言うものだろうが。一曲ぜひ踊ってくださいとかなんとか!」  おっとっと。  ようやく思い出したぞ。キャンベルといえば天下の爵家じゃないか! なにやらやたら気にいって新しいものが仕入れられるや否《いな》やたくさん買ってくれる娘さんがあって、ウチがそんな名士の御用達《ごようたし》になれたなんて鼻高々だと支店長が感涙《かんるい》にむせんでいた、あれは、この娘のおかげだったのか。  ははあ。この子の物欲とワガママがめぐりめぐって僕の小遣いになるというわけか。  いやはや感謝かんげき。  商売しょうばい。 「お嬢さま」ウィリアムは腰をかがめて、腕をさしだした。「よろしければ、次の曲を」 「……よろこんで!」  はにかみながらもこどもじみて飛びついてきたところをみると、この仔鹿、まだ誰からもダンスに誘われていなかったのだろうか。お洒落心と冒険心は別で、はじめての正式な舞踏会の場に臆して、母の懐《ふところ》に隠れていたのだろうか。  甘やかされて驕慢《きょうまん》な貴族令嬢かと思わず偏見を抱いたが、はじめてのダンスに緊張してツンと顎をつきだした姿勢は勇ましくて凛々《りり》しい。挑《いど》むようにまっすぐな瞳がいきいきとして可愛らしい。  この子はきらいになれないな、とウィリアムは思った。  こんど店《ジョーンズ》に用があったら、自分を呼び出してくれるように言っておこう。誰かセンスのいいのに若い女の子が好きそうなものを見繕《みつくろ》ってもらって、持っていこう。うちをそんなに気にいっていっぱい買ってくれているなら、サービスしたほうがいいし、店頭に並べる前の見本でもみせてやったら、きっとよろこんでくれるだろう。  コベントガーデン青果市の賑《にぎ》わいはロンドン名物のひとつだ。露店と露店の間の狭《せま》い通路は仲買や小売り客でこったがえし、ひとごみのすごさに少しでも空いているほうへとやたらに折れたりなどしているうちに、慣れぬとすぐに道に迷う。  エマは買い物|籠《かご》をさげて、もの慣れた様子で、ひとを縫って行った。ゆっくりと、だが決然とした足どりで馴染《なじ》みの八百屋《やおや》にたどりつくとアスパラガスを一山頼んだ。初夏の訪れを言祝《ことほ》ぐみどりの野菜は女主人の好物で、これの細いのをただシンプルに茄《ゆ》でて薄いトーストに隙間もなくずらりと並べたオープンサンドイッチならば、どんなに食欲のない時にでも、少なくともひと口は食べてくれるはずだった。  チョッキのボタンのぱんぱんな八百屋の若旦那にケリー好みの細いのを選《よ》りだして目方をはかってもらっていると、スカートを掴まれた。 「やっぱ、エマねぇちゃんだ!」 「ちゃんだ!」 「あら、こんにちは」エマはにっこりした。 「かいものー?」 「ものー?」  まだ幼い八百屋《やおや》の娘マーガレットと、トミーの姉弟だ。少し知恵のまわらない小柄なトミーはいつもマーガレットの�金魚の糞�をやっている。 「あのねぇ、あたしこんど、ぼおどすくる、にいくんだよ」と、マーガレットが得意がる。 「くんだよー」 「ボードスクール?」 「あんたはいかないでしょ」トミーはピシャリと言い切られて、たちまち泣きそうな顔になる。 「公立小学校ってやつさ」苦々しげに言ったのは、八百屋の若ことマーガレットの父だ。 「ったく。みょーな制度ができちまったもんだ。こちとらまったくいい迷惑よ。ガキ集めて、おありがたい教育とやらを施しくださろうってんだから。それも、親の手伝いをする時間を削ってまでだぜ?」  やだやだ、いっしょにいくー、と泣きべそをかくトミーを、ダメなんだって学校なんだから、と、こつんと殴るマーガレット。 「なまじ女にハクなぞつけたら、嫁の貰い手なくならぁ」 「いいじゃないの、これからは女だってガクモンだよ」とおりすがりのおかみさんがケンツク言い返した。「読み書きソロバンができたら八百屋商売の役にもたつし、詩のひとつも暗唱できたらどこぞのお貴族さまでも捕まえてくれるかもよ!」 「チェッ、ばか言ってら」八百屋は新聞紙に包んだアスパラをさしだし、エマから対価を受け取った。「んーなこた勉強でどうこうなるもんじゃねーだろ! はい、まいどーありー」 「まいどー」 「どー」  三重に手をふってくれる八百屋と娘と泣き止んだトミーに手を振り返しながら、エマは歩いた。  歩むリズムにつれて、知らずしらずのうちに、一篇の詩の文句が頭にうかんだ。詩は、足音とともに韻を踏んで流れた。  ケリー・ストウナーが朗々と暗唱してみせては、繰り返してみうとうながすことで幼いエマの頭に徐々にしみこませた、それは、高い教養だった。女中風情《メイドふぜい》が施されるにはあまりに立派すぎる�ガクモン�だったかもしれない。 [#ここから3字下げ]  私は、特権を誇っている町という町を、  特権を誇っているテムズ河のほとりの町々を、歩きまわる。  すると、そこで出会う一人一人の顔に  疲労困憊《ひろうこんぱい》の色、悲しみの色が漂っているのを私は見る。  どの男のどの叫び声にも、  怯《おび》えて泣くどの嬰児《えいじ》の泣き声にも、  どの声にも、どの憤恚《ふんい》の声にも、  人間の心が自《みずか》ら作った鉄鎖《てっさ》の陣《うめ》きを、 私は聞く。  I wander through each chartered street,  Near where the chartered Thames does flow,  And mark in every face I meet  Marks of weakness, marks of woe.  In every cry of every man,  In every infant's of fear,  In every voice, in every ban,  The mind-forged manacles I hear|.《※》[#『London[ロンドン]』ウィリアム・ブレイク 『イギリス名詩選』平井正穂編岩波文庫より。引用したのは詩の前半部分。] [#ここで字下げ終わり]  リトルメリルボーン122番地にたどりついて買ってきたものを台所にしまい、玄関|框《がまち》に届いていた郵便物を持って女主人のもとにあがった。ただいま戻りました、と手渡した封筒はやけに上質な気取ったものだ。  女主人は顔色が悪かった。肌がカサカサして生気がない。片肩に流すように結った髪がパサついているのが見苦しい。お加減のよさそうな時に、よく部屋をあたためておいて、お顔もおぐしもきれいにしてさしあげなくてはと思う。  心配のあまり小言のひとつもいいたくなる気持ちを必死に押し殺して、「とても良いアスパラがありました」朗《ほが》らかさを装って言う。「安く買えました。このところプディングばかりでしたから、奥さまのお好きな美味しいトーストを……」 「エマ」  はしゃぐエマを叱るような声で、ケリー・ストウナーは言った。 「お見舞いにいらっしゃるそうよ。ジーョンズ親子が」 [#ここから3字下げ]  星々がその光芒《こうぼう》を地上に放ち、  その涙で大空を覆いつくしたとき、  造物主はお前をよしとして微笑《ほほえ》んだのであるか?  彼は小羊を造り、かつお前を造ったのであるか?  虎よ! 夜の森かげで  赫々《あかあか》と燃えている虎よ!  死を知らざる者のいかなる手が、眼が、  お前の畏《おそ》るべき均整を造りえたのであるか?  When the stars threw downs their spears,  And watered heaven with their tears,  Did he smile his works to see?  Did he who made Lamb make thee?  Tyger! Tyger! burning bright  In the forests of night,  What immortal hand or eye  Dare frame thy fearful symmetry|?《※》[#『The Tyger [虎]』ウィリアム・ブレイク 『イギリス名詩選』平井正穂編 岩波文庫より。引用したのは詩の後半部分。] [#ここで字下げ終わり]  かつての雇い主のひさかたの訪問を前に、女主人は陋屋《ろうおく》を徹底的に掃除させ、自らの身支度《みじたく》もていねいに整えさせた。全身を清め、整え、髪を結ったのはむろんのこと、頬や唇に薄化粧を施し、静脈の上に練り香を施した。いたって地味な普段着ではあるが品があって上質な服ものを厳選してまとい、耳にも首にも指にもつけないきららかな宝石をさりげなく髭にさした櫛《くし》に置いた。  エマは窓辺に立って待った。予告した時刻の二分前に馬車が路地に到着したので、足音をたてぬように移動し、女主人に報告した。  親子が門口を叩いたのは約束からきっかり五分遅れた時分である。エマにとってはじめて見ることになったミスター・ジョーンズ……ウィリアムの父親……は、身長こそ息子より半インチほど低かったが、肩や胸板ははるかに分厚くたくましかった。敏捷《びんしょう》だっただろう筋肉が中年太りに変化するきざしの見える腹部や臀部《でんぶ》すら、いかにも裕福な紳士らしく恰幅が良いと形容できただろう。  ご立派なおとうさま、と思う。  昂然《こうぜん》と顎をひき胸をはって、下女は下女らしく眼の端でしか見ようとしない紳士から外套《がいとう》やら手袋やらを無言のままに受け取る。一瞬、ウィリアムが父親の眼を盗んでいかにもなにか言いたそうに自分を見たような気がしたが、恭《うやうや》しく眼を伏せて無視した。心苦しかったが、しかたがない。こんな狭い場所では、かわしたことばはおろか、目配せすら、見逃してもらえないかもしれないのだから。  客人たちを、居間にお通しする。 「ようこそ。御大御自《おんたいおんみずか》らいらしていただけるなどとは、思いませんでしたわ」女主人は詰め物をした椅子に座ったまま、手をさしのべた。「椅子にかけたままでいることを、どうかお許しくださいませね」 「かまいませんとも、ミセス・ストウナー」  リチャード・ジョーンズはあたたかみの少しもない微笑みを浮かべると、礼を失しない最低限度の時間だけ夫人の手を取り、すぐに離した。その手があふれる精力をしめしてカッカと熱く、しかもじっとりと湿っているのをケリーは感じた。他人の汗に濡らされた手をスカートで拭《ぬぐ》いたくなる気持ちを堪《こら》える。 「すっかりご無沙汰してしまって、ミスター・ジョーンズ。ちっともお変わりありませんのね」 「あなたこそ。お倒れになったと聞いてあわててこうして馳《は》せ参《さん》じたのですが、なんと、存外、お元気そうではありませんか」 「がっかりでしょ。足先を痛めただけですもの。棺桶《かんおけ》の蓋《ふた》から覗《のぞ》き見《み》している哀《あわ》れな耄碌婆《もうろくばあ》さんをおからかいになりたくておいでになったとしたら、まことに申し訳ございませんわ」 「ははは。お戯《たわむ》れを。いつもながらのご健勝、鬼神も寄せつけぬそのご威光、まことに重畳《ちょうじょう》、いや、あやかりたいばかりです」  侮辱《ぶじょく》ぎりぎりの丁々発止《ちょうちょうはっし》のやりとりにウィリアムが呼吸困難にでも陥《おちい》ったかのように顔をまっかにしているのを、エマは見た。  他人のであっても争いごとのきらいなウィリアムにしてみれば、きっと幼いこどもの頃から、このふたりが上空で皮肉な舌戦を繰り広げるのをハラハラ見守っていたのだろう。話題にされるのが自分のことだとすると、まして、気が気ではなかっただろう。 「なんでもこのところ伜《せがれ》がこちらにたびたびお邪魔をしておりましたとか……沙汰止めば止みっぱなし、懐けば懐きっぱなし。やることなすこと極端な、まことに子供っぽいやつでして。かたじけない。さぞかし迷惑な教え子でしたでしょうな」 「いいえ、そんな。とても良い生徒でしたわ。ただ、すこうし、気の散りやすいところがありましたけど」 「そう言っていただけると有難い。どうも男のくせに夢見がちってやつで、女房のほうに似ましたでしょうか、万事に悠長なところがありまして」  茶の準備をしながらチラッと見ると、ウィリアムは、ふたりの視線の交差から逃れられる位置の椅子に肩をこわばらせて座り、誰かたすけてくれといわんばかりの顔をしている。 「たびたび言うのですが、どうにも自覚が足りない」 「若いんですもの。しかたありませんでしょう」 「そうも言っておれません」  そっと近づいたエマの手に、リチャードはいきなり腕を伸ばし、茶器を奪いとった。しかも、その刹那《せつな》に、あきらかになんらかの意図をもってジロリと彼女の顔や様子を、睨《ね》めあげすらした。  観察されてる。  エマはドキリとして、あわてて手を引き、俯《うつむ》いて退《しりぞ》いた。 「わたくしめといたしましてはですな」リチャード・ジョーンズは改めて声を張って、誰にともなく宣言した。「伜にそろそろ家を継がせたいのです!」  エマはうっかりつまずきそうになり、あわてて、ありもしないホコリを絨毯《じゅうたん》から拾うふりをした。 「わたくしもいまでこそ健康そのものですがね、頑健この上なかった先生ですら、これこのように御静養を余儀《よぎ》なくされることもあると知ってますます不安になりましたわい。人間、齢《とし》には勝てないし、明日なにがあるかもわからない」 「確かに」  ケリー・ストウナーは低く鋭く言いながら、考えこんだ。若いふたりが緊張し胸を騒がせている空気を、正しく読んでいた。  リチャード・ジョーンズときたら、ここでいったいなにをやらかそうというの? よりによって、わたくしのこの居間で? 「どんなに気をつけていても、当人にもどうにもならないこともありますわね」 「そうなったときのことを考えると、やはり今のままではどうにも心もとないですな」リチャードはフンと鼻息を洩《も》らしながら、ギロリと息子を見た。「とりあえず身を固めてもらえば少しは変わるかと。幸い、このたび、なかなかよい話がまとまりかけておりまして」  えっ、とケリーも眼を見張ったが、 「この伜を酔狂《すいきょう》にも気にいって、ご令嬢をぜひにと言ってくださるかたがありましてねぇ」 「ちょ、ちょっと待ってください!」さしものウィリアムも立ち上がった。「なんですか、その話、僕は聞いてませんよ!」 「あたりまえだろう。まず親を通して感触《かんしょく》をはかるのが当然だ」 「なにいってんです。ていうか、誰ですか、それ!」 「先日の舞踏会で逢っただろう、キャンベル子爵のところのエレノア嬢だ。花もはじらう十六の、無垢《むく》で愛くるしい令嬢だそうじゃないか? 先方はすっかり乗り気だしお前もまんざらでもなかったと聞いたが」 「な……」  ウィリアムは立ち上がった。 「なにを勘違いを。だって、たいへんな上得意さまみたいでしたから! 舞踏会に出席するのは業務のうちだとお父さん、あなたにさんざん言い含められていましたからね。ジョーンズから高価なものをたくさんお買い上げくださったのだと聞いたから、ならばと愛想よくしたまででしょう! 第一……五十年も前のことならいざしらず、親同士示し合わせて縁組だなんて、この世紀末には通用しませんよ! 僕がハイそうですかお父さんのいうとおり、なんて言うと思ったら大間違いですから!」  言い切った語尾《ごび》が、沈黙の居間にただよった。  こんな大声で誰かが言い争う場面などというものに久しく出くわしていなかったケリーは思わず流れ弾から身を守りでもしようとするかのように椅子の背にすくんでいたし、エマは客と主人の全員に順番に飲み物を用意する作業の途中で立ち去ろうにも立ち去りかね、両手が忙しくて耳をふさぐこともできず、できれば聞きたくなかったことまで無防備な背中に浴《あ》びせられたような具合だ。 「……誰か」  低い、低い、囁《ささや》くような声で、リチャード・ジョーンズは訊《たず》ねた。 「あるのか? こころに決めた女でも?」 「そ……」  ウィリアムはチラリと父親を見た。  悠然と椅子にかけ、片手を肘掛《ひじか》けに頬杖《ほおづえ》ついて、なにか言い返せることがあるなら言ってみうといわんばかりに挑戦的なまなざしをぶつけてくる父を。  巨大で偉大で尊大で、かつてただの一度も乗り越えさせてくれたことのない父を。  父の言動に反発を覚えたことは何度もある。高見《たかみ》から見下ろすような言い方や、いつでも自分のほうが正しいのだと決めつけているかのような態度に、思わず「でも、それは」「ちょっと待ってください」と口走ってしまったことが、過去何度もあった。  そうして、何度か、なんとかして論駁《ろんばく》しようと戦ってみていつも思い知るのは、父という石壁の城はそう簡単に崩れるものではない、ということだ。  身も蓋《ふた》もない正論には蟻《あり》の這《は》いでる隙《すき》もなく、冷徹な思想は多少揺すぶってみたとて小揺《こゆる》るぎもしない。若さゆえろくに準備もととのえぬまま思わず反射的に繰り出す息子の抵抗を、可愛らしいものだと大目になどこの父はぜったいに見てくれない、他者よりよほど厳しくあくまで冷静に徹底的に突き落とし、完膚《かんぷ》なきまでに叩きのめしてこそ、親だと信じているような節がある。  低く座って見上げている父のほうが、立って見下ろしている自分よりも、�高い�ところにいるのを、ウィリアムはいやでも感じた。  自分がちいさなみすぼらしいネズミにでもなって、ひっこんで震えることのできる穴を探しているような気がした。  と。 「それは、ジョーンズ家にふさわしいレディなんだろうな」  と、父が言った。  いやみったらしく。  その途端、ウィリアムは左手が自動的にビクンとし、そこから腕を抜け心臓にかけて熱いものが素早く走り抜けるのを感じた。こころではなく、頭でもなく、愛を誓《ちか》う、永遠の契《ちぎ》りを誓う婚約指輪をはめる指先が、なぜかこのとき、鋭く反応したのであった。だらりと垂らした左手の掌は、背後で茶器を扱っている音の方角を向いていた。その手はまるで太陽を追いかけ続ける向日葵《ひまわり》のように、そこで無言でいつものつとめをひそやかに働いている女性のたおやかな気配を受け止めているのだった。びりびりと。間断なく。  ウィリアムは泣きたくなる。  エマは温湯の中からティーカップを拾い上げているところだ。  屈《かが》んだその背は聞いている。  父の冷徹で非道なことばを聞いている。  彼女の耳にそれはきっと錐《きり》のように突き刺さる。 「おまえの個人的な見解はわかった。しかしな、結婚というものは一時のことではない。一生のことだ。ゆえに、同じ国のもの同士が望ましいのだ」 「同じくに?」意外なことばにウィリアムは面食らった。「僕は外国人と交際したいなどとはひとことも……まさか」笑う。「なに言ってんですか、ちがいますよ、ハキムの侍女じゃありませんよ!」 「ベンジャミン・ディズレーリの言うとおり、『イングランドは二つの国民からなっている』のだ」  リチャードはニコリともせずにいい放った。 「すなわち、上流階級とそうでないもの。この二つでは文化伝統価値観などあらゆるものが相違している。かろうじて言語は通じるものの、別々の国だ。世界一の大都市我等が首都ロンドンは、いわばこのふたつの世界に跨《またが》がって存在している特別の場所なのだ」 [#ここから3字下げ]  ──人間の心が自ら作った鉄鎖の陣きを、私は聞く。 [#ここで字下げ終わり]  エマは思う。 [#ここから3字下げ]  ──虎よ! 虎よ! [#ここで字下げ終わり]  そう、こういったたくさんの詩を……美しくて悲しくて壮絶ないくつもの詩を、震《ふる》える魂《たましい》からあふれでずにおかぬ叫びのように……書いたひとも、ウィリアムさんというのだったわ、と。 [#地から3字上げ]──第一巻おわり── [#改丁]  『小説エマ』を書くにあたって[#地付き]久美沙織  小説版エマを執筆制作するにあたっては、何度も多くの疑問・困惑が生じ、おりおり壁にぶつかって作業が中断した。これはひとえに、わたくし久美沙織《くみさおり》に、英国およびヴィクトリア朝に対する詳細な知識や関心がなかったことによるものである。  ノベライズを担当させていただくことが決まって以来、さまざまな資料を手にいれるよう努力し、浴《あ》びるように読んだり観たりすることはしたのであるが、ドロナワ感は否《いな》めない。そもそも、もともとこの時代の風物を愛し、長年にわたって興味と研究をすすめてこられたであろう原作者|森薫《もりかおる》さんに匹敵するほどの理解の深みには、そうかんたんに到達できるわけがない。  よって、原稿は、少し書いてみては、森さんとエンターブレイン編集部のかたがたに読んでみてもらって修正提案を受けた。  また、わたしのもともとの友人のうちでもっともこの分野に詳しいひとではないかと思われた稀代《きだい》のシャーロキアン北原尚彦《きたはらなおひこ》さまには、小説第一稿を読んでいただき、ヴィクトリア朝を舞台とした物語として致命的な間違いがないかどうかをチェックして欲しいとお願いし、幸いにもご快諾《かいだく》いただいた。 『エマ』を書くことになっているんだけど難しいよお、とグチッたおかげで、評論家にして翻訳業の大森望《おおもりのぞみ》さまに『犬は勘定《かんじょう》に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝|花瓶《かびん》の謎』執筆時にお使いになったという貴重な参考資料一式をゴソッと譲《ゆず》っていただくというご好意もちょうだいした。  このように、ほとんど新月の森を手さぐりで三歩進んでは二歩もどるようにし、多くのかたの助けを得て、やっとなんとか書き上げたものである。それでもまだ、齟齬《そご》や誤解や不適切な表現があるかもしれない。また、小説として、うまくいっていない、面白くない部分があるかもしれない。そういうものはみな著者の責任であることは言《い》う迄《まで》もない。 『エマ』全巻+『エマ ヴィクトリアンガイド』(ともにゆBEAM COMIX エンターブレイン刊)以外に、主として参考にさせていただいた資料は以下の通り。順不同。 『19世紀のロンドンはどんな匂いがしたのだろう』ダニエル・プール 片岡 信訳 青土社 『十八世紀 ロンドンの日常生活』リチャード・B・シュウォーツ 玉井東助・江藤秀 『図説 イギリスの生活史 道具と暮らし』ジョン・セイモア 小泉和子訳 原書房 『英国ヴィクトリア朝のキッチン』ジェニファー・デイヴィーズ 白井義昭訳 彩流社 『挿絵の中のイギリス』リチャード・ドイル 富山太佳夫訳 弘文堂 『図説 ヴィクトリア朝 百貨事典』谷田博幸 河出書房新社 『洒落者たちのイギリス史 騎士の国から紳士の国へ』川北稔 平凡社 『イギリスのカントリーハウス 建築巡礼』片木篤 丸善 『ロンドン歴史の横道』川成洋・石原孝哉 三修社 『ロンドン・フェア 十八世紀英国風俗事情』小林章夫 駿々堂 『世界美術の旅 ロンドン物語 上下』世界文化社 『英国キッチンガーデンの楽しみ』吉谷桂子 集英社 『黒馬物語』シュウエル 足沢良子訳 ぎょうせい 『テス』バーディ 井上宗次・石田英二訳 岩波文庫 『オリヴァ・ツイスト』ディケンズ 本田季子訳 岩波文庫 『自負と偏見』オースティン 中野好男訳 新潮文庫 『月長石』ウィルキー・コリンズ 中村能三訳 創元推理文庫 『釣魚大全』ウォルトン 飯田操訳 平凡社 『ヴィクトリア朝空想科学小説』風間賢二編 ちくま文庫 『ヴィクトリア朝妖精物語』風間賢二編 ちくま文庫 『イギリス名詩選』平井正穂編 岩波文庫 『テニスン詩集』西前美巳編 岩波文庫 『小説エマ』を書くにあたって COLLINS ROADATLAS BRITAIN LONDON AZ アトラス現代世界 DVD『シャーロック・ホームズの冒険(イギリス・グラナダテレビ版)』 DVD『秘密の花園』 DVD『理想の結婚』 DVD『抱擁』 [#改ページ]  解説[#地付き]村上リコ  この文章を目にしているあなたは、どんなきっかけで手にとられたのでしょう。  (1)森薫《もりかおる》さんまたは久美沙織《くみさおり》さんのファン。  (2)ヴィクトリア朝というキーワードに反応してしまう人。  (3)表紙のイラストにビビッときた人。  (4)アニメになると聞いて気になっている人。  この本は、そんなみなさんがきっと満足できるものになっているということを今からご説明いたします。  (1)作者お二方のファン。  同人誌時代からの森薫さんのファンだよ、連載を毎月心待ちにしているよ、いやむしろ信者だよ、という方はすでに多いでしょう。  わたしもそうです。勤めていた会社をやめるなり押しかけ的に企画を持ち込み、『エマヴィクトリアンガイド』という解説本を作らせていただいたあげく、『エマ』のことならなんでもやらせて! とばかりにやたらと仕事を引き受け、今も、慣れない小説の解説原稿に苦しんでいるところです。  一方で、まず小説から読んでみようかな、と考えている方もいらっしゃるでしょう。  久美沙織さんは少女小説やファンタジー、名ゲームの小説化で社会現象を引き起こした方ですから、古くからのファンも多いはずです。わたしも久美さんの『MOTHER』で泣いたことがあります。  どちらも大好きなので、このお二人が組んだ小説化の企画を聞いた時、なんて嬉しいニュースだろうと内心|小躍《こおど》りしたものです。  久美さんが執筆を進めるにあたって、一度、映像資料のおすすめをするメールのやり取りをさせていただきました。十九世紀ロンドンの情景を「視《み》る」ために──という言葉を彼女は使いました。久美さんは心の眼で「視て」書く方なのですね。本編を読んで得心がいきました。空を行く鳥がはっきりと見えた瞬間とか、きらびやかな舞踏室、ウィリアムの高鳴る心臓の音、それからほのかに鼻をくすぐる清楚《せいそ》なあの香り……。情景、音、匂いのみならず、人々の心の動きまでも克明に、その世界にあるものとして幻視させてくれる文章がここにはあります。  心の動きといえば、原作漫画ではあまり使われない心の声、モノローグが、小説では一人称的三人称として全編を覆《おお》っているのも新鮮です。語ることの少ないエマやウィリアムの心の言葉を読むのは、なんだか好きな人の日記を読んでいるようなドキドキ感があります。  イメージした世界を、絵で、ひたすらに描き込むことを無上の喜びとする森さんと、ヴイジュアルが克明に浮かぶ文章で読ませてくれる久美さん。最初に「ああ、これは絶対にすごく好きなものができる」と直感した通り、わたしにとっては幸福な結婚でした。  (2)ヴィクトリア朝好きの方。 「新作のヴィクトリア朝小説が出るらしいぞ」と聞いて手にとってみたという方も、もしかしたらいるんじゃないかとにらんでいます。そんなあなたも、自分の好みを担《にな》うアンテナの性能にきっと満足される結果になることと思います。 『エマ』は英国ヴィクトリア時代末期を舞台にした物語です。ヴィクトリア時代というのは、一八三七年から一九〇一年まで、ヴィクトリア女王が治めていた時代のことを言います。かつて酪農《らくのう》や穀物生産が中心だった手作りの社会が、産業革命の影響で、大量生産の大量消費というかたちに生まれかわっていった、その渦中《かちゅう》の時代です。  ひとにぎりの貴族や地主たちが、国中の土地の半分以上を所有し、「上流階級」を形成していました。工業技術や流通や情報の進歩によって、ビジネスにはげんだ新興紳士《しんこうしんし》たちはどんどん富をたくわえ、土地を買い教養を身につけて上流の末席に加わろうとしました。われらが主人公ウィリアムの位置はここになるわけです。ある意味、この時代の成り上がり精神を象徴《しょうちょう》する立場の人です。そして、それにつづく中流階級。ビジネスマンや軍人、裕福な医者や弁護士もいれば、貧乏な学校教師もいるといった具合に、中でも細かくランクづけされていて、その幅はたいへんなものでした。かつて教育者だったケリー・ストウナー先生はここ。中流階級までがレディ、ジェントルマンと呼ばれることができます。逆にいうとここから落っこちると紳士|淑女《しゅくじょ》ではなくなってしまいますから、滑《すべ》り落《お》ちそうな人は必死です。三人兄弟の真ん中の子よろしく、上や下が気になる位置なのでしょう。わたしは四人兄妹の二番目なので、とてもよくわかります。そして一番下は労働者階級。雑役女中《メイドオブオールワーク》のエマは、数多くいたメイドの中でも特に低い位置にいます。  こうして、二人の間にはさまっている数々の階層に目を向け、レディ&ジェントルマンとそれ以下という厳然《げんぜん》たる線引きのことを考えると、この物語のヒーローとヒロインがいかに遠い存在かわかるのではないでしょうか。いまの日本ではそうそう考えられない階級制度。これだけへだてられた二人が、いかに深く広い溝を乗り越えていくのか、それがひとつのテーマになっています。  (3)表紙でスイッチが入っちゃった人。  表紙に描かれた質素な黒いメイド服を書店で見かけて、ふいに何かのスイッチがバチーンと入ってしまった方。真ん中に立つ彼女の周りに咲き乱れる花々の色やかたちに不思議と心惹《こころひ》かれるなぁと思う方。彼女が持っているカゴの中の木の物体が気になって気になってしょうがない方(ヴィクトリア時代のせんたくばさみです)──カバーから目に入ってくる様々な情報、細《こま》かなディテール、そこに何かを感じて立ち止まった、そんなあなたのことも、この小説はしっかり抱きとめてくれるでしょう。  原作コミックの『エマ』は、ロウソクにランプに石炭、それを入れる暖炉の火床《グレート》、縦形窓に分厚いカーテン、食べ物飲み物、黒いメイド服に白いペティコート、そのふちについた刺繍《ししゅう》まで、執拗《しつよう》に丁寧に、「あの世界」のあらゆるものを描き出そうとするかのような執念でつくられた作品です。  森さんのそんなフェティシズムは、久美さんの筆に乗り移り、あるいはシンクロして、この小説の中に物凄い勢いで噴出しています。せんたくばさみみたいな細かいものは嫌と言うほど出てくるし、黒いメイド服はいろんなポーズで動きます。エマは丹精こめて裏庭でハーブを育てています。前述の通り、精密で美しい絵と、一読すればパッと絵が浮かぶような文章で、表紙から感じられる世界の中に入っていけること請《う》け合《あ》いです。  (4)アニメから興味を持った人。  二〇〇五年二月現在、四月からのテレビアニメ版『英國戀物語《えいこくこいものがたり》エマ』放映にむけて、いよいよ製作佳境という状況になっています。この本が出る三月には、放映直前。期待も高まっていることと思います。  小説とアニメは、同じ森さんの原作をもとにしていながら、それぞれ一流のクリエーターが手掛けたまったく別の作品になっています。それは、小説の久美沙織さんや、アニメ版監督の小林常夫《こばやしつねお》さんに、森さんが全幅《ぜんぷく》の信頼を寄せているからこそ起きる現象です。森さんは久美さんのお家を訪問して「合宿」し、交流を深められたそうですし、小林監督には、絵コンテの出来のあまりの素晴らしさに感動して、手描きの「感謝状」を贈ったそうです。わたしも脚本打ち合せに参加しているのですが、監督始めスタッフの皆さんとの、週を追うごとに濃くなるヴィクトリア朝会話が楽しくて「これは仕事なのか?」という状態になっています。  注目のキャラは、ハキムです。小説版では、ハキムが出てきてからノリノリで筆が進んだと聞いています。アニメの製作現場では、脚本の池田眞美子《いけだまみこ》さんのハキム好きが有名です。仕上がりを見ると、原作と小説では少し個性が異《こと》なり、アニメ版にも原作とはちょっと違うニュアンスが加わり、そうなるとアニメと小説ではかなり違う人になっているのがわかります。ハキムというキャラには女性作家の乙女心を刺激する何かがあるのでしょうか……。そこで違うからダメだなどとは言わず、あわせて鑑賞し、微妙な差異を見つけて楽しまれることをおすすめします。それぞれの分野でトップを走るクリエーターが同じテーマを手掛けることにより、メディアの特性や資質の違いがよくわかって面白いですよ。  まずは読んでみて下さい。この本を手にしたきっかけは異なるとしても、きっと多くのみなさんが幸せになれるものとわたしは信じています。 [#改ページ]  イラストあとがき   こんにちは、森です。この本をお買い上げくださったかた、どうもありがとうございました。  さて小説版エマですが、漫画なら表情に逃げてしまうところを、久美さんのていねいな筆致により、しっかりはっきり文として読むと、身もだえ感もひとしおです。自分はこんな話しを書いていたんだなぁと客観的になるかと思ったら、坊ちゃんがエマであわあわきゃーどうしよう!!と、完全に一読者としてドキドキしっぱなしでした。恋っていいですね。(←誰?)  そしてあたりまえの事ですが久美さんは文がうまいですね。なにせもう入り込んでドキドキしっ(以下略)  小説のさし絵というのは初めてでしたが、漫画とはまた違ってとても楽しかったです。  なんだかもう小学校の感想文のようなあとがきですが、頭の中が恋電波にやられていると思ってください。 [#地付き]森薫 [#改ページ] [#地付き] 本作品中に一部、差別的と解釈される箇所がありますが、 [#地付き]これは歴史的な事実を表現するために使ったのものであり、 [#地から2字上げ]差別を助長する意図は全くないことをここに記します。 [#改丁] 底本:「小説 エマ1」ファミ通文庫 (株)エンターブレイン    2005(平成17)年04月01日 初版発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※各所にある解説文は入力者注の表記法方にあわせ再校正してあります。解説文を抜粋しますので底本どおりの文章は以下を参考ください。 ○155行  『※ノーフォークの婦人/1877年出版の『黒馬物語(ブラック・ビューティ)』の作者、アンナ・シューエルのこと。からだを壊して数年間寝たきりになった晩年に、生涯唯一であるこの作品を執筆した。ここでこの動物文学の傑作の名があがるのは、多感な年頃であったウィリアムが刊行直後にこの評判の作品を読み、以来、働く馬たちや貸し馬車業務について無頓着ではいられなくなったことを示している。』 ○183行  『※クリノリン/スカートを広げる為の骨組。また、そうして広げたスカート。 バッスル/ドレスの腰からヒップを強調する為の腰当。元々はダウンや木綿を詰め込んだパッドだったが、鯨骨などが使われるようになり大きさを増した。』 ○348行  『※訪問カード/当時、訪問や面会のさい、名刺代わりに頻繁に使われていた。』 ○624行  『※狼の口/イギリスの(おもに)ティータイムに出される菓子、スコーンの、生地がうまく焼けたときにできるという、膨張部分の割れ目の俗称。』 ○632行  『※クロテッドクリーム/イギリスの伝統的なクリーム。牛乳を煮詰めたものを一晩おいて作られる。 ケイジャリー/タラなどの白身魚とゆで卵を入れたリゾット風の料理。』 ○1056〜1058行  『※ボビンレースとは、糸巻を使ったレースのこと。トーションレースは、イギリスに最初に入ってきたというヨーロッパのボビンレース。ドイリーは、卓上用の小型敷布を指す。ブルージーレースもボビンレースの一種で、繊細さが特徴。』 ○1898行  『※オットマン/フットスツール(足のせ用の補助椅子)。18世紀にオスマントルコからイギリスへ伝わったといわれる。』 ○2213行  『『お気に召すまま』シェイクスピア 福田恒存訳 新潮文庫より一部引用。省略した部分は�──�で表した。』 ○2419行  『『London[ロンドン]』ウィリアム・ブレイク 『イギリス名詩選』平井正穂編岩波文庫より。引用したのは詩の前半部分。』 ○2452行 『『The Tyger [虎]』ウィリアム・ブレイク 『イギリス名詩選』平井正穂編 岩波文庫より。引用したのは詩の後半部分。』 ※底本の誤字脱字と思われる箇所に関しては一切修正を加えておりません。該当すると思われる箇所を抜粋しますので気になる方は修正してください。 ○895行  『「茶殻がない時は、〜ケガしちいゃますからね」』 ○1643行  『〜脳の鍛練《たんれん》になるののだという。』 ○2429行  『「お見舞いにいらっしゃるそうよ。ジーョンズ親子が」』